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 鼻腔を突くのはどうしても好きになれない生薬の匂い。
 荷の数を確認しながら、ふと、視界の端に留まった人影に、顔を上げる。
 それは向こうも同じだった様で。
 一瞬、視線が合う。
 その顔に、蘇るのは、苛立ち。
 思わず、顔を背け、手元の帳面に、視線を戻す。
 知らず、眉間に皺を刻む。
 ちらりと、もう一度視線をやれば、薬種問屋の他の番頭と、にこやかに言葉を交わす仁吉。
 その姿に、まるで己のことなど気にしていないと、見せ付けられているようで。
 また、苛立ちが募る。

「仁吉の馬鹿が…」

 呟いた悪態は、、けれど忙しく荷が行き交う中、紛れて消えた―。





 ふっと、浮上する意識。
 何度か寝返りを打っては見えるけれど、一度覚めてしまったそれは、簡単には眠りに戻してはくれなくて。
 諦めて目を開ければ、薄闇に浮かぶ部屋が、いつもより広く感じた。

―あ…仁吉がいないから…―

 何時もなら直ぐ傍に感じる吐息も、体温も、今は無くて。
 ただただ、静寂が佐助を包む。
 不意に、何気なく喉の渇きを覚え、ぼんやりとした意識のまま、枕もとの水差しに手を伸ばしたところで、はたと気づく。

―仁吉が用意してくれてたから…―

 忘れていた。
 仕方なく身を起こし、台所まで行こうかと、迷う。
 
―仁吉がいたら…―

 一瞬、浮かんだ考えを、慌てて打ちけす。
 脳裏に蘇るのは、昼間の、まるで己の存在など無視した横顔。
 向こうから折れる気は、毛頭無いようで。
 また、苛立つ。

「仁吉の馬鹿が…」

 今日二度目の悪態は、けれど、声にした途端、寂しげな色が滲み、佐助は自身の声に、驚いた。

「……」

 じっと、見据えるのは、今は何も無い、空虚な闇。
 何時もなら仁吉がいるはずの―。

「……」

 暫くして、佐助の唇から零れたのは、何かを諦めたような溜息だった―。





 一太郎が寝扱けてしまったのを皮切りに、宴会はお開きとなり、皆が一人二人と帰って行く。
 後に残るのは、散らかされた部屋と不意の静寂。
 佐助と二人、片付ける音が、無音の部屋に響く。
 何気ない会話は、何度か交わしたけれど、どこか硬い空気はそのままで。
 それを察していたらしい一太郎が、何度か困ったように自分達を見比べていたのは知っていたけれど。

「灯、落とすよ」
「あぁ」

 頷いた途端、部屋の灯りが、常夜灯に切り替わる。
 もう一度きちんと一太郎に布団を着せ掛けてやり、二人並んで、部屋を辞した。
 いつもと同じ所作。
 いつもと同じはずのそれは、やはり、どこかぎこちない。
 ぎりと、手指を握りこむ。
 先に部屋に入った背に、思い切って、口を開く。

「すまなかった」

 唐突だったのだろう、仁吉が驚いたように振り返り、思わず、視線を逸らしてしまう。

「……」

 けれど、仁吉から返ってくる言葉は無くて。
 呆れて、いるのだろうか。
 途端、こみ上げてくる気恥ずかしさ。
 沈黙に耐え切れなくなり、逃げるようにくるり、踵を返す。
 目元が、熱い。

「わ…若だんなが心配だから…き、今日は向こうで寝るよ」
「―――っ」

 不意に、手首を掴まれ、阻まれる。
 唐突なそれに、訝しむように見つめれば、零される苦笑。 

「いや…あたしの方こそ…なんだかむきになっちまって…」

 驚くほどに素直な言葉に、顔を上げれば、絡む視線。
 知らず、零れる照れ笑い。
 仁吉も、つられたように、笑った。
 そっと、目元に、触れてくる、仁吉の、細く白い指。
 頬に触れる、久方ぶりの体温が、愛おしい。
 まるで確かめるようにそっと、頬から首筋、耳を掠めて項へと滑る指先が、くすぐったい。
 
「仁吉…」

 耳に響く己の声は、ひどく優しくて。
 こんな風に呼ぶのは、仁吉だけ。
 首筋に腕を絡ませれば、交わすのは口付け。
 互いに絡めあった舌に、溶け合う体温。
 それはひどく愛おしくて。
 どちらともなく、漏れる吐息は、熱を孕んでいた。
 久しいそれは、いつもよりも熱を呼んで。
 とくり、脈打つ。

「本当に悪かった…あたしには仁吉が必要なのに…」

 苦い笑いと共に零させば、もういいからと、瞼に一つ、口付けを落とされる。

「そんなの…お互い様だろう。あたしだって佐助が必要なんだから…」

 耳元、落とされるその声は、ひどく優しい。
 囁くようなそれに、久しぶりに鼓膜を擽る、その声に、知らず、身体が震えた。
 微笑う仁吉に、視線を絡ませれば、どちらともなく、再び重なる唇。
 艶めいた水音が、熱を煽る。
 いつもよりきつく舌を吸われ、首に絡ませた腕に、僅か、篭る力。
 ゆらぐ、行灯の影が映す、重なった二人の影。
 
「佐助…」

 求めるように名を呼ぶ声が、愛しい。

「佐助…」

 今までのことを埋めるように、繰り返される。
 何度も何度も、名を呼ばれ、その声に滲む、己に向けられた感情の深さに、知らず、笑みが零れる。
 空白が、埋まる。
 己の裡が、満たされる。
 
「仁吉」

 応える声に、どうしようもなく、愛しさが滲むのを止められなくて。
 求めてしまうのを、止められなくて。

「……」
「……」

 無言で交わす視線に滲むのはどうしようもない愛しさと幸福で。
 その夜、互いの腕の中に帰ってきた、愛しい体温を、二人は何度も交し合った―。