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 それは昨夜遅くのことだった。

 一太郎坊ちゃんの高かった熱もようやく下がり、佐助が深い安堵の息を吐く。すやすやと規則正しい寝息をもらす坊ちゃんの寝顔を、兄やたちは二人並んでしばし眺めた。

安堵と共に部屋を辞す。妖の目は闇を貫くので、昏い廊下を手燭もなく手代部屋へ歩む。昼間は春先の温い空気が満ちる廊下も、いまだ夜となると、どことなく冷えた空気が漂う。

傍らで仔犬が冷えた夜気に軽く身を震わせた。

 闇を透かして見る佐助の横顔は、連日の看病の疲れで、どこか影を帯びる。十代を半ば過ぎたばかりの歳若い手代、明るい笑みの似合う愛らしい面差しが今は暗い。いつもの明るい笑みを久しく見ていないことに気付き、仁吉は眉をひそめた。

 坊ちゃんを護りたいと、強く願う気持ちは変わらないつもりだが、ときに佐助はその想いの強さゆえ、思い詰めたような様子を見せる。

身を呈してでも、その命を削ってでも、護らんと。

犬神を作ったお大師さまが、人間を護れと願ったから。かつて大切な人間を護りきれなかったから。佐助が辿ってきた道筋に、様々な理由はあったけれど。何より強く佐助を拘束するのは、犬神自身が抱く渇望に似た想い、人間を護りたいという強き願い。

 痛々しいまでに強く、護りたいという想いに拘束された佐助は、仁吉の眼にひどく儚く映り、ときに戸惑わせる。

 手代部屋に戻り、行灯に明かりを入れ、仁吉が小さく息を吐く。佐助はすぐに布団をのべ、さっさとその身を布団に滑り込ませてしまう。眼から上だけを布団から出し、佐助が目元に穏やかな笑みを浮かべ、おやすみと囁く。

 いつもの笑みが垣間見え、仁吉が口元に薄く笑みを刷く。佐助がもぞもぞと布団の中で丸まり、すぐに寝息が聞こえはじめた。ようやく手に入れた愛しい半身は、齢八百を数えようと、まだまだ幼い。

 ポコリと丸く盛り上がった布団の中で、佐助が丸まっている。わかってはいても、なぜか奇妙な焦燥を誘う。強き想いゆえ、その身を儚くしてしまうのではないか。夢幻のごとく目の前から、唐突に消えてしまうのではないか。ありもしない幻惑に苛まれ、仁吉は肌がざわつく思いに耐えた。

(お前をどこにもやりゃしないよ、佐助)

想いを伝えても、おぼこい仔犬は、きょとんとして首を傾げるだけだろう。ましてや、そこまで想っているのだと素直に伝えられるはずもなく、仁吉が苦笑してため息をつく。

行灯の灯を消し、仁吉も布団へ入った。傍らの布団へ手を伸ばし、佐助の手を取る。指を絡め、仁吉が安堵の息を吐く。

 変わらぬ温かい指がそこにあった。

 

 

「では、じきに佐助がきますから」

 うん、と一太郎ぼっちゃんの明るい声が応える。たっぷり綿の入った綿入れにくるまれ、達磨のようになったまま、機嫌よく手を振ってくる。

一太郎ぼっちゃんの熱がようやく下がったのは昨夜のこと。けれど今日はずいぶん調子がいいのか、すぐに布団から出たがった。そのお目当ては、最近はじめた囲碁。今日も暖かな春の日差しが降りそそぐ縁側で、碁盤を挟み屏風のぞきと向かい合っている。その周りで、坊ちゃんの小さな膝にすがる者、碁盤を背伸びしてのぞく者、めいめい好き放題に振舞う鳴屋たちが、かしましく戦局を占っていた。

「じきにお前のヘボ囲碁じゃぁ、坊ちゃんに太刀打ちできなくなるね」

「うるさいね!さっさとお行きよ」

眦を吊り上げて、屏風のぞきが手で追い払う。怖く目をすがめ、不遜な笑みを返せば、引きつった表情を浮かべ、それでも切れ長の目に反抗心を満たし、精一杯の虚勢を張る。気が強く、無礼な付喪神へ小馬鹿にした笑みを投げ、怒りの表情を楽しんでから、仁吉は立ち上がった。

佐助ならば庭を抜けてくるだろうかと、庭へ降りる。

離れと母屋をつなぐ木戸の向こう、一心に駆けてくる仔犬の気配を感じて、仁吉はつい微笑んだ。木戸が開き、佐助が顔を出す。蔵の横に仁吉の姿を認め、まだ幼さを残した顔に穏やかな笑みを浮かべる。

「坊ちゃんの具合はどうだい?」

「さっきから、屏風と囲碁をしているよ」

 ほっと安堵の息を吐き、佐助がひとつ頷いた。昨晩の暗い表情は片鱗も見えぬ明るさ。心持ちまぶしげに見る仁吉へ笑いかける。

「じゃあ後はまかせて、店表にお行きよ」

「そうだね、まかせたよ」

 にこり、笑みを向け、佐助が庭に向かって走り出す。木立の影から明るい庭へ躍り出たその姿に、仁吉は軽く息を呑んだ。

 

「――佐助!」

 切迫した声で急に名を呼ばれ、明るい日差しの下、佐助がきょとんとした顔で振り返る。佐助の足元から湧き上がるは、春の日差しが作り出す柔らかな陽炎。淡い陽炎に足元を包まれた佐助は、まるでこの世の者ではないかのごとく映る。

 陽炎に包まれ、いずこかへ連れ去られてしまうかのようにさえ。

求めて、ようやく掴んだつもりが、掌からこぼれ落ちていく……怖い想像に仁吉の背に冷たい汗が浮く。

仁吉が怖い眼をしているのに気付き、仔犬の眼が怪訝な色に染まる。心配げな表情で、愛らしく小首を傾げた。目上の大妖への遠慮ゆえ、言葉をかけようとして、言葉を選んだか。仔犬の唇がいくばくかの逡巡にわななく。軽く寄せた眉根と相俟って、鮮やかな艶を生むのも知らぬまま。

 歳若い手代の伸びきっていない身体はしなやかで、犬神の本性を思い出させる。

まだ細い身に、気付かぬままにまとう艶。まるで誘っているかの艶に、触れたい、と強く願う。

 今すぐ、ここで、存在を確かめたいと。

「仁吉、どうしたんだい?」

 佐助が歩み寄ってくる。

無防備なその手を強く掴んで、引き寄せる。驚きに満ちた幼い顔が残像になって流れ、仁吉は強く佐助を抱きしめた。握った手の温かな感触はいつものもので、何も変わりはしないのだが、それでも不意に心を騒がせる。波打つ気持ちは不安に似て、さらに仁吉を苛立たせる。

「にき……っ、仁吉!」

 抗議の声に殊更強く抱きしめ、逃れんとする力を封じるために、土蔵の白壁に身体を押しつける。佐助が軽く息を詰めた。肺を強く圧迫されたためか、けほっと咳がもれる。

 もぞもぞと強い腕の中で動き、佐助が顔をあげた。

「――痛いよ、ねぇ、どうしたんだい?」

 見上げる視線に脅えの色を読み、仁吉が口の端を引き上げる。脅える表情さえ、どこか媚態を含んで見える。ゆっくりと顔を近づけ、疑問を発する唇を唇でふさぐ。びくり、身を震わせてから、佐助が硬直した。逃げようとする頭を押さえつけて、深く唇を合わす。

 蔵のあたりは木立の影になり、薄暗いとはいえ、昼下がりの日差しが見える場所。そんな場所で強く舌を吸い上げられ、口腔をなぶられ、抗議の声を封じられた佐助の眦に涙が浮かぶ。

手代部屋での秘め事ならば、ゆったりと愛しい気持ちに包まれる、幸せなはずの行為。今は、軽く仁吉の胸を押し返してみても、さらに強く抱きこまれるだけ。虚しい抵抗を幾度か試みるも、自分の体と心に苦しさを呼ぶのみ。

「う……んぁっ」

いっそ苦しいまでの強引な口づけに、自然、苦しげな声がもれる。その声に気付き、仁吉がようやく唇を離した。目元を朱に染め、軽く息を乱す佐助を眺め、仁吉が眼を細める。

「――仁吉、放しておくれよ」

 掠れた、睦言を囁くに似た声へ、仁吉が美麗な笑みを返す。

「い、厭だよ……人が、来るよ」

 戸惑い、弱々しく言い募れば、返事の代わりに耳朶を舐め上げられ、佐助がぎゅっと眼を閉じる。耳を甘噛みしつつ、仁吉がしっかり掴んだままの左手を引き上げ、土蔵の白壁に押しつけた。自分の左手越しに大妖の力の波動を感じ、佐助が眼を見開く。

「仁吉っ!」

 困惑を含んだ声に、仁吉が軽く身を震わす。変化の力が一瞬のうちに仁吉の表面を疾り、十代を半ば過ぎたばかりの歳若い手代が、すらりとした二十歳ばかりの美麗な手代へ変わる。細身ではあるが、自分よりはるかに長身の姿。それは仁吉の本性に似て、まぶしいほどに美しい。

 初めて佐助の身に触れたときから、仁吉は本性に近い姿で仔犬を腕の内に抱き込むのを好んだ。仁吉の秀麗な目元に意地の悪い笑みが浮かぶ。この姿をとった意味を、容易に逃れられないことを察し、佐助の眼が涙で潤む。

 寸の間、佐助は言葉を失い、仔犬に似た眼を伏せた。

「なんだい?人が来たら厭だと言ったのは、お前だよ。結界を張れば見えはしないよ」

 と、甘い声で囁いて覗き込めば、佐助の頬が一気に紅潮した。

「そ、そうじゃないよ、こんな……っ」

聞く耳持たぬとばかりに、唇をふさがれ、指が耳朶から首筋へと滑る。それでも逃れようと身をひねれば、背後から強く抱きこまれ、土蔵の白壁に押しつけられる。

「にきっ……」

冷たい掌が、襟の合わせ目をたどり、するりと忍び込む。まだ薄い胸の筋肉をなぞり、敏感な場所へ。厭だと言う気持ちと裏腹に、今ではすっかり肌に馴染み、愛しいと思う掌に弱いところを辿られ、佐助が押し殺した声で鳴いた。

「こんなの、厭だよ、仁吉……」

 苦しげに息を乱し、掠れた声が拒絶する。

拒絶の言葉に、仁吉の腕が更にきつく抱きしめてくる。胸の突起を指が弄る。指の腹でこすり上げ、柔らかくこねる動きに、たまらず佐助がわずかに喉を反らした。

「――っ、はぁっ、仁吉っ……」

 見上げる佐助の眼が欲情に潤む。若々しい精悍さが消え、どこか甘さを含んだあどけない眼差し。仁吉はその艶めく表情に眼を細め、愛しげに頬に唇を寄せる。頬から耳、首筋へと唇を滑らせるほどに、かすかに乱れる吐息を楽しむ。

襟に手をかけ、強引にはだけさせる。目線を下げれば、きれいな鎖骨の線。

「ねぇ、厭だよ……っ」

 甘い拒絶の言葉は、誘っているように聞こえると、何度言ってもわかろうとしない。けれど、今はそんな揶揄さえ落とす気になれなくて、無言のまま、さらに襟を引く。あらわになった肩に唇を這わせ、肩甲骨へ。

「仁吉っ」

 裾を割り、手を内股へ滑らせる。下帯越しに自分自身をつかまれ、佐助がぎゅっと眼を閉じた。拍子に涙が頬を伝う。

 欲動に耐える横顔。聞こえはしないとわかっていても、つい声を呑む佐助の姿が、さらに仁吉を煽り立てた。下帯を取り、直接佐助自身へ指を這わす。指で軽くしごきながら、耳朶を甘噛みすると、佐助がふるりと身を震わせ、たまらず声を落とす。

「……っあぁっ」

「佐助……」

甘い声で名を呼んで、頬を伝う涙を唇でぬぐう。

 けれど、仁吉の片手は甘い声が嘘のように、さらりと着物の裾を引き上げた。後ろから足を膝で強引に押し割り、性急な指が秘所をたどる。

「にき……厭だよ」

 潤んだ眼を向け、佐助が抗議する。仁吉が口の端を吊り上げ、袂に手を入れ、小さな貝の合子を出す。わざと佐助の目の前で蓋を開ければ、中身を見た仔犬が小首を傾げる。見覚えのある薬は、坊ちゃんの肌が乾燥したとき用の塗り薬。薬を見せるついでに強く腰を押しつければ、硬く憤ったものが腰に当たり、仔犬の頬が一気に紅潮した。

困惑気味に、潤んだ視線を投げてくる。仁吉はにやりと笑った。

「お前、いつになく硬くなってるようだからねぇ、傷つけちまったら、仕事に障るだろう?」

 戸惑う眼差しが合子と仁吉の顔を行き来する。

「坊ちゃんは乾燥するとすぐに肌が荒れちまうのは、食が細いからかね。まぁ、お前には必要ないもんだけどね、普段は」

 白く細い指先が、ひょいと塗り薬をすくい上げる。

「お前の肌は、極上の絹よりも滑らかだからね、でも、こういうときには……」

「にき、にきちっ――ひっ……あぁ」

 油分で仁吉の指がするりと中に潜り込む。細いとはいえ、指で唐突に秘所を開かれ、異物感に腰が引ける。逃げる身体を引き戻され、手馴れた様子で内部を愛撫され、佐助が涙を流して喉を反らした。

 泣きぬれた眼元が欲情で朱に染まる。眉根をよせた苦悶に似た表情、半開きの唇が掠れた鳴き声をもらす。艶めく表情と声に、仁吉がうっとりと眼を細める。

「佐助、いけない子だね、そんな顔をして……」

 いま少し馴染ませなければとわかっていても、昇り来る衝動に耐え切れず。

白壁に上半身を預け立ったまま、背後から後庭に押しつけられた熱く硬いものに、佐助が泣き濡れた眼を見開く。思わず、小さく振り返れば、仁吉のどこか怖い眼に出会う。唇を仁吉の唇がふさいだ。そのまま強く押し入られて、合わせた唇の端から、ひっと短く引きつった声がもれる。

 塗りこまれた油分を含んだ薬ゆえか、仁吉の硬い太棹が、ぬめるように狭い腔内を押し開く。異物感に混じる、いつもと違う感覚に戸惑い、佐助がまた涙を落とす。ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、額を白壁に押しつけた。

「いっ、厭だ……ぁ」

 拒絶の言葉を耳にして、仁吉が表情を曇らせる。普段ならば佐助の身を慮り、ゆっくりと待ってやるところだが。

焦れたように、更に深く、突き上げた。

「あうっ……」

 一瞬、身体が浮くほどの衝撃に、白壁へ佐助が頭をぶつけかけた刹那、大妖の力が疾り、ふわり、硬い土壁の表面が柔らかいものに変わる。乱れた息をもらし、佐助が安堵の色を浮かべて、絹の敷寝に似た感触へ顔をうずめる。

「にき、ち……んぁっ」

 返事代わりに強く抱きしめ、佐助自身を指で軽くしごく。佐助の足が、自力では立っていられないほどに震えている。その横顔を覗き込めば、眦に涙が浮かんでいるが、半開きの唇が甘い吐息をもらしている。

 くすり、耳元で笑われ、佐助が身を震わせた。

「――佐助、お前、いつも以上に気持ちいいんじゃぁないのかい?」

 色悪めいた声で囁かれ、佐助の頬が更に上気する。潤んだ眼が仁吉を睨めつけるが、流し眼に似た艶を含み、どうにも効果はない。かえって仁吉は、くすくすと忍び笑いをもらした。

「佐助……」

 と、囁いたとき、庭の木戸が開き、小僧が一人、駆け込んできた。こちらに一片の注意を払わないのも当然で、大妖白沢の仕掛けた結界は、白昼の蔵の前で睦み合う姿をきれいに隠している。

 けれど。

 びくり、あからさまに佐助が身を震わせた。羞恥ゆえ、一気に頬が紅潮する。無意識に腕の拘束から逃れようと、身体を動かしたものの、不意に動きを止めた。

 ぎゅうと妙に締まりが強くなり、仁吉が腕の中の仔犬を見る。

 しっかりと眼を閉じ、半開きの唇が短い息を忙しなくもらしている。なるほど、と口の中で呟いて、仁吉が軽く腰を使った。指の中の佐助自身が先走りを流して、熱を増す。揺すり上げられ、佐助が首を横に振る。

「う、あっ、厭っ――やめっ……っ」

「佐助さ~ん!」

 佐助が仲良くしている小僧が、庭から離れのほうへ声をかけるのが聞こえた。と、同時に深く貫かれ、佐助は耐え切れず、仁吉の手の中へ精を放った。

 

「――屏風はうまく隠れたかね、お前は、そうとう気持ちいいところに、当たったちまったみたいだけど」

 ぼそり、呟いて手の内の仔犬を見る。佐助は荒れた息もそのままに、真っ赤になり、項垂れている。眦に浮かんだ涙を唇で吸い、仁吉が微笑む。

 その横を小僧が首をかしげながら去っていく。

ひちゃり。

背後で響いた音に、佐助がぴくりと身を震わした。涙を吸ってくれた唇が、手の内に吐いた自らの精をなめ取る音。断続的に響く音から逃れるように、大妖の力に柔らかく包まれた白壁へ、紅潮した頬を押しつける。

仁吉の手が再び佐助自身を弄りはじめる。

深く貫いた仁吉のものが、焼き付きそうな熱を腔内で発している。先ほどの射精の余韻を残してはいるが、まだ昇り詰めるには早いというのに、仁吉が腰を使いはじめる。

佐助が大きく息を吐いた。

「厭だよ、仁吉……」

「そうかい?お前、そんなに止めてほしいのかい?」

 動きに息を乱しながら、きゅうと眉根を寄せ、佐助が寸の間、怒ったような表情を浮かべた。

「だから、あたしは、こんな場所で――しかも、そんなに急がれるのは厭だって、言ってるんだよ」

「ゆっくりしてたら、お前、坊ちゃんの傍に行けなくなるじゃぁないか」

 しれっとした声で言われ、佐助が更に眉間のしわを深くした。

「仁吉の、馬鹿」

 子供めいた悪態に、仁吉が人の悪い笑みを返す。

 強く腰を使われ、徐々に身体が反応しては来るが、もれるのは圧迫ゆえの声。愛しいという気持ちが見えなくて、佐助は哀しげに眼を伏せ、ほろり涙をこぼした。

「お願いだよ、そんな急がないでおくれよ、あたしはどこにも行かないから」

 と、掠れた声で囁いて、仁吉を斜に見上げる。その、どこか傷ついたかのような眼差しに、仁吉が眉をひそめた。

「っつ、本当だよ――だから、ねぇ、そんなに怯えなくていいんだよ」

 仁吉が息を呑み、動きを止めた。怯えるなどとは心外極まりなく、いたく仁吉の自尊心を傷つけた。けれど、よく見れば、痛みに耐える顔をしているのは、言った佐助のほう。こぼれたのは、先に年上の大妖の矜持を傷つけまいと、遠慮して飲み込んだ言葉。仁吉が眉を吊り上げた。

 よもや佐助に気付かれているとは、思ってもみなかった。

 儚く消えてしまいそうな幻想に、怯える本心を。失いたくないと願う気持ちを。

「なに、言ってんだい……っ」

つい言葉を荒げれば、佐助が身をねじり、必死に腕を伸ばして仁吉の頬に手を添える。いつもと変わらぬ温かな掌に、仁吉が怯む。佐助は穏やかな笑みを浮かべ、仁吉の頭を強く引き寄せ、唇を合わせた。佐助にしては珍しく、自分から舌を絡め、強く吸う。

長い口付けの合間に、ご褒美とばかりに掌を佐助の肌に這わせる。口腔内に佐助の乱れた息が届き、無理な姿勢のまま寄せ合った身体が、徐々に熱を帯びる。

唾液の糸を引いて、ゆっくりと唇を離す。

「仁吉……」

小さな声が囁くように名を呼んで、半開きの唇が切ない息をもらす。

「陽炎みたいに消えちまったりしないから。だから、ちゃんとあたしを見ておくれよ」

「――おぼこな仔犬が、一丁前のこと言うんじゃぁないよ」

 仁吉が眦を吊り上げ、怒った声を作って吐き捨てる。きゅうんと、しおたれた表情で、伏せた瞼の震えが愛おしい。その耳元へ、仁吉はため息混じりに囁いた。

「もう、気をやってもいいのかい?」

 俯いた頬が朱に染まり、仔犬が小さな頷きを返す。

佐助……と甘く囁いて腰を使えば、仔犬は羞恥に頬を染めつつも、愛らしい鳴き声をあげた。きれいに反った背を抱きとめる。仁吉の肩に頭を投げ出し、佐助が欲情に潤んだ視線を投げてくる。甘い息をもらしつつ、求めるように。欲情に支配されても、なおきれいに澄んだ瞳を愛おしげに見つめ、仁吉が微笑んだ。

 

ごめんよ、と。

珍しい詫びの言葉が、快楽の波に翻弄される佐助の耳をかすめた。

 

 ちょっと待っておいで、と言いおいて、歳若い手代姿に戻った仁吉が結界を割って出て行った。動けと言われても、動けるわけもなく、佐助は火照った顔を俯けた。

 すぐに手桶と手拭を手に、仁吉が戻ってきた。

 後始末をつけてもらう間、佐助はじっと大人しくしていた。それでも濡れた手拭が、敏感な場所を拭うたび、ピクリと身を震わす。見れば、いまだ軽く身体が震えている。着物を整えてやってから、仁吉は苦笑して、佐助の額に口付けた。

「大丈夫かい?」

 笑みを返そうとして、佐助の眉が八の字を描く。度が過ぎた快楽ゆえか、立ち上がることも出来ない様子だ。面目なさげな表情に、仁吉が楽しそうに口の端を吊り上げる。

「お前、いつになく、良い声だったねぇ」

「ひどいよ、仁吉があんなことした所為じゃぁないか……」

 ぽつり、小さな声が力なく詰る。仁吉がさらに笑って、ひょいと立ち上がる。揶揄する眼で佐助を眺め、腕を組んで考えること、しばし。

「一旦、本性に戻ったほうがよかないかい?」

 こくり、素直に頷いて、犬神の力が表出する。一瞬、烏帽子を被り、白い狩衣を着て、犬の耳を持つ凛々しい少年の姿が見えた。ふわり、風が落ち着くような錯覚。歳若い手代の姿に戻り、佐助が大きく息を吐く。

「立てそうかい?」

 佐助が手を伸ばす。立たせて欲しいのかと、その手をつかめば、ひょいと思いの外、勢い良く立ち上がった。その勢いのまま、佐助の掌が、ぴしゃりと小気味良く仁吉の額をはたく。

「うっ……」

 人間の姿では見えないが、仁吉の額に隠された第三の眼。軽くとはいえ、弱点ともいえる第三眼を打ち据えられ、仁吉が寸の間、息を詰める。

「な、なにすんだい!」

「いろいろ辛かったんだから、お返しだよ!」

 笑いを含んだ幼い声が、それでも憤然と言い放つ。ついでに軽く舌を出し、佐助はこらえきれないように悪戯っ子の顔で笑った。笑って、身を翻し、離れに向かおうとする首根っこをつかむ。

「お前はこっちだよ、さっき小僧が呼びに来たろう、気持ち良すぎて忘れちまったのかい」

 その瞬間の自らの痴態を思い出し、佐助がさっと頬を朱に染めた。羞恥に打ち震える仔犬に、人の悪い笑みを投げた。けれど。

仁吉の眼が不意に和らぎ、愛おしそうに佐助を見る。

「用事が済んだら、交代にきておくれ」

 佐助が眼を上げ、慈しむ視線を向ける仁吉を見た。澄んだ眼がじっと見つめてくる。素直な気持ちを視線に乗せ続けるは、仁吉にとってはむず痒いこと。甘い見つめ合いの果て、くすっと佐助が笑った。

「無理しなくていいよ、仁吉。安心しなよ、あたしが坊ちゃんも仁吉も護ってあげるから」

 などと、とんでもないことをさらりと言って、佐助が身を翻す。仁吉は苦笑して細い背を見送った。

 仔犬は元気良く、陽炎さえも蹴散らして走っていく。

(そうだね、犬神の力なら、陽炎にどんな妖力が宿っていようと、負けるはずはないだろうね)

 失うことに恐怖を感じるのは、それだけ佐助が大切だから。

(驚いたね、仔犬のくせに、妙に鋭いんだから)

 くすり、愛おしげに笑って、仁吉も離れに向かった。

 

 離れでは囲碁がまだ続いていた。

「あれ、仁吉?」

 と、庭を歩いてくる人影に気付き、一太郎坊ちゃんが頓狂な声を上げる。

「佐助じゃあないの?」

「佐助は店表のほうに呼ばれましてね、先ほど小僧が呼びに来たでしょう?」

 一太郎の向かいで立膝に頬杖をついて、呻吟するような表情を浮かべていた屏風のぞきが、さらに眉間のしわを濃くする。碁盤をのぞけば、完全に坊ちゃんが優勢だ。嘲笑う視線を手で払い、ち、と屏風のぞきが舌打ちした。

「うるさいのが戻ってきたね」

「おや、やっぱり一太郎坊ちゃんは聡いお子だ。屏風ごときでは相手にならないでしょう」

「そんなことないよ、今日はとても調子が良いだけだよ」

 にこりと笑う坊ちゃんの居住まいは、歳の割には落ち着いている。

「でもあまり根を詰めると、また熱が出ますよ」

 はーい、と素直に返事をしつつも、一太郎は大人のように、ひょいと肩をすくめて碁盤を見た。そのきらきら輝く眼差しは、好奇心にあふれていて、仁吉が苦笑して小言を止めた。屏風のぞきが、妙に和らいだ仁吉の表情を面白そうに見上げる。碁盤に視線を落としてから、屏風のぞきがさして興味もなさそうに質した。

「ねぇ、仁吉さん、小僧が呼びに来たのって、ずいぶん前だった気がするんだけど、お前さんたちどこにいたんだい?」

「ああ、坊ちゃんの熱が下がったお礼にね、お稲荷様の祠にお参りしていたんだよ」

 ちらり、表情をうかがった屏風のぞきへ、くい、と口の端を吊り上げ、黙れとばかりに凄絶な笑みを投げる。潜在的な恐怖から、屏風のぞきの身体が硬直した。

え、と顔を上げた一太郎へは、優しい笑みを向ける。

「え?そうなのかい、我のために?ありがとうよ、仁吉」

 当然のこと、と仁吉が笑う。変わり身の速さに気付くこともなく。優しい兄やの笑みに、いたって素直に一太郎が微笑みを返した。

 

 庭では春の日差しに陽炎がゆらめく。濃くなりはじめた緑が優しい色に見えるよう、陽炎がゆるく景色をぼかしていた。

『陽炎』