働き手が雑魚寝をしている長崎屋の六畳間、
そこを間借りし始めていくらの時を経ただろうか、布団の中から起き上がると仲間から声がかけられた。
「…ん……松之助?」
「すまないね。雪隠(せっちん)だよ。」
布団の中で身じろぐ気配が静まるのを見届けてから、息をひそめて部屋を出た。
ひっそりと静まりかえった廊下が離れまで続いている。
ぼんやりとした月明かりが差し込んで夜半にもかかわず足元は明るい。
眠たい目を擦りながら、当て所もなく縁側を歩いていた。
時はまだ子の刻、ざわついた胸中をもてあましながら春椿に隠された場所へ向かう途中、
手代部屋からおぼろげな光と声が洩れていることに気が付いた。
「佐助さんと、仁吉さん…働き通しだろうにこんな夜中まで起きてるんだ。」
障子ごしに洩れる光はとても柔らかで、
この歳になるまで家族というものに恵まれない松之助の目をひきつける。
今でこそ兄弟と慕ってくれる存在が胸を温かく満たしてはいるが、
自らの感謝の念を忘れないために常日頃から若旦那との間には礼節ある道筋を整えていた。
その礼儀がよそよそしいと若旦那はいうけれど、それは長崎屋で世話になる以上必要なものなのだ。
二人分の障子に結ばれる影はとても親しげで、羨ましくないといえば嘘になる。
気がづけば、吸い寄せられるように側から眺めていた。
「仁吉…こら、やめないか。」
「やめろと言われて、やめるかね。」
「くすぐったいだろう。」
「お前は相変わらず耳が弱いね。」
近づけばより一層したしげな笑い声が聞こえる。
二人の影が重なったと思えば、突然障子が細く開かれて、
息を呑んだ松之助は膝を折り縁の下に隠れるように身を潜めた。
まだ降り続いている雨音が背中を濡らしたが、
気配を消してくれる方が今はありがたかった。
「大丈夫、見えないはずだ。」
言い聞かせる語尾が震えていた。
行灯の光は中から照らし出されていて、
外は暗いから松之助の影は向こうからは人目につかないはずだ。
それが人間が相手ならばー
「誰かと思えば…」
出歯亀をした後ろめたさと緊張にさいなまれて、
物音にすら気付かず息を押し殺していた。
そのため、頭上から声がかかると、
松之助は驚きのあまり飛び上がる。
「っつ、」
長雨で泥濘んでいた泥に足許をすべらせ、よろめいた。
尻餅をつくところで、咄嗟に目を伏せ身を強張らせる。
「危ないでしょう。」
いつまでまてども衝撃が走るはずの体には痛みがなく、不思議に思い目を開けた。
目の前には、日に焼けた端正な顔が間近まで迫っている。
度肝を抜かれた松之助は声も無く、
口だけが金魚のように開いて閉じてを繰り返す。
背中は力強い腕に支えられていて、何故か触れられた場所が熱をおびてじんわりとあつい。
松之助は無防備に目を見開き、未だに驚きの最中に居て、
佐助が目許を緩めて微笑んだことにすら気付かない。
「本当に、若旦那じゃあないが…危なっかしい。」
ましてや、佐助が洩らした小さな声など耳にも入らず。
見咎められた恥ずかしさから、
耳まで火照らせて両手で広い胸を押しかえした。
その間も小さな雨粒がふりそそぎ、二人を濡らしていく。
「す、すす…すみません。み、見るつもりはなかった…んで…す。」
佐助の腕は容易くはずれ、
二人の間には距離が生まれる。
見開かれた瞳は、人の目には見えないけれど、緊張のあまりにかすかに潤んでいて、
きびすを返した後ろ姿は、耳までが赤く染まっていた。
「…松之助さん」
雨音に紛れて庭を駆けていく。
途中何度か木の根に足元を掬われ、
立ち止まりながら、
どうしてか小さく見える背中が消えていくまで、
佐助は体が水気を帯びていくのもかまわずに見送っていた。
その日、松之助はとうとう布団の中で一睡も出来ずに、夜を明かした。
床を上げてからも、たちの悪い風邪でもひいたかのように、頭の中に熱が籠もっていた。
朝告鳥の声で目覚めた身には、井戸のひやりと冷たい水が心地良い。
ひと心地つくおもいで、手拭いから溢れて首筋をつたう水滴を袖で乱暴に拭った。
盥の水に写る顔は、目の下に面取りをしたかのような隈ができている。
昨夜から眠ろうと目を伏せるたび、瞼の裏に仲睦まじい手代達の姿が浮かんで一睡も出来なかったからだ。
「最悪だ。」
言葉よりはるかに如実に「一睡もできなかった」と語る顔を濯ぎ流そうと、
両手で水を梳くってはいくどとなく洗う。
もとより年も同じ小僧の頃から長崎屋にいたのだと聞いたから、親しくなるのが自然な二人なのだけれど、
ただの手代以上に縁が深いようで、昨夜の姿はまさに恋仲のそれだった。目を閉じれば笑いながら重なる影が瞼の裏に消えない残像として残り、その度にどうしようもなく瞼の裏があつくなり、息苦しくなるのだ。
「なんでこんなに胸が苦しいんだろう。」
盥に残った水を頭からかぶった松之助はぽつりと呟いた。
今朝がた菱垣船からの積み荷が届いて回船問屋は俄に騒がしくなった。
人足が出入りして、問屋は荷物を入れるために間口の下の木枠を外し、通りから店の裏まで積み荷が入るように玄関を跳ね上げられる仕掛けになっている。
入れ替わり立ち替わり運び込まれる積み荷は遠く南の海の香りがした。
懐かしいはずもないのに、何故か胸の中が温かくなるように感じられて、
思い思いの物語を想像させる積荷を運ぶ松之助の顔が穏やかになる。
仕事に集中している間だけは、昨夜のことを忘れられることができた。
「お〜い。佐助さん」
仲間の呼び声を耳にしたとたん、胸のうちで心臓が大きく跳ねて、
なにかを考えるよりも早く松之助は積み荷の裏にしゃがみこんでいた。
何であたしは隠れているんだろうと、自問自答しながら隠れた手前引っ込みがつかなくなっている。
「どうしたんだい?」
土間に入ってきた佐助の声を聞いた途端、姿も見えない松之助の脳裏に、
昨夜の映像がありありと浮かんだ。
熱気でくらくらと頭が揺れているのか、まるで眩暈でも起しそうで両手で顔を覆い隠す。
佐助が交わしているのは何気ない仕事の話で、いつも聞きなれているはずの声なのに、鼓動はいつまでも騒がしくて、なんでか眼まで熱くなる。
「一体どうしたんだい。松之助?」
隠れていた背中から声をかけられて、上擦った声が喉からすべりでる。
「うわぁっ」
我ながら間抜けな声だった。
けれど、頭をしめていた当人の前で名を呼ばれたことに驚いて、
咄嗟に相手の肩を掴んで無理やり身を屈ませていた。
「誰から隠れているんだい?」
「しぃーーっ」
鼻頭が触れ合うほどの距離まで顔を近づけて、声を潜めさせる。
指をそえた唇はかさついた男のもので、
一体何をしているんだろうと、身を隠しているのがなんだか物悲しい気持ちになった。
だが見つかりたくないと思う時ほど気付かれてしまうのが世の常で−−
「何をしているんですか?」
荷物越しに頭上から声をかけられた。
心臓がそれは大きく存在を主張して、相手が誰かは顔を見上げる前から分かっていた。
ふりそそぐ眼差しを感じただけで息苦しくて、ついつい目を逸らしてしまう。
「…な、んでもないです。」
佐助さんの顔を見てしまうと昨夜の光景が鮮やかに浮かび上がる気がして、阻まれた。
「それにしちゃあ苦しそうだよ松之助?」
しゃがみこんでいた男が、唇に添えられていた指先を握り締めて覗き込む。もとから近い距離がさらに縮まると、荷物ごしに見下ろしていた佐助がわずかに瞳を曇らせた。
「松之助さん具合が悪いんですか?」
それは何気ない仕草だったけれど、いつの間にか回り込んだ佐助が松之助の腕を掴んだ。
ゆっくりと促すように立たされ、自然と顔を覗き込んでいた男の手が離れる。
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから、」
まともに顔をみれずに足元を凝っと見つめる松之助の耳朶が赤くなる。
「大丈夫な人がそんな顔をしませんよ。」
日頃から病床の若旦那を看ている佐助は、優しくも有無を言わせぬ声でいう。
しかし松之助はそれどころではなかった。
頭の中では昨夜の映像が繰り返されて、親密に寄り添う影がちらつく。
佐助の手に腕をつかまれただけで先ほどより胸がつかえたように苦しくて、何故だか目頭が熱くなるのだ。
このような感情を松之助は知らない。
「大丈夫なんで、腕を…」
語尾にいくにつれ小さく萎んでいく声を聞き取ろうと佐助が大きな体を屈める。いつもは見上げる距離の体が近づいて、よく日に焼けた肌から太陽の香りがした。
それだけで、くらくらと目眩がまして頭がゆれる。松之助はつい顔を背けた。
「松之助さん。なんともないなら、なんで顔を見ないんですか?」
「それは……その、いずれ話すので、腕を離して…ください。」
ちかい距離でとどく声がたまらなくて、松之助は思い切って顔をあげた。
涙腺が壊れたように涙が溢れて、下唇をきゅっと噛み締め上目遣いに佐助を見つげる。
そうしてみあげた佐助の目をまん丸く見開いたの表情が、精悍な顔に似合わず意外なほど可愛らしいなんて思ってしまったのを最後に、松之助の記憶は溶けて途切れた。
朧気な行灯のあかりが障子に不明瞭な影を結ぶ。その光を横顔に受けた手代が、布団の上で親しげに身を寄せ合っていた。
腕(かいな)は互いの背に腰に回り、微笑みあう表情。そこには誰も入る余地がない、二人の姿は信頼に結ばれた深い関係に見えた。
仁吉と佐助は幼い頃よりともに時を重ねた二人なのだから、かけがえのない存在として互いが想いあっていたとしても、それは誰しもが納得するだろう。
それなのに、そう頭では理解しているはずなのに、
溢れた涙が頬を伝い、行灯の光が滲んで見える。
ぼやけた視界、景色はすべて輪郭が柔らかく蕩けているのに、抱き合う二人だけがはっきりと見えて不思議に思う。
――嗚呼、これは夢なのかと悟った。
そう気付いた頬に暖かいものが触れた。
何だろうかと浮かび上がる意識が覚醒するよりも早く、柔らかい吐息が触れる。
今はもう無い、昔奉公していた店で見た猫を思い出す。
猫というよりも、犬に舐められている感覚かなと無意識に手を伸ばして撫でようとすると、
なにやら手触りの良い、だが犬猫とはあからさまに異なる大きさの物に触れた。
これは、……人。
「大分熱は引いたみたいですね?」
耳あたりの良い、低くも丸い響きの持つ声をきいて松之助の頭は瞬時に覚醒した。
両目を見開いた所で、目の奥をつく光の眩しさにすぐに睫を伏せる。
まだぼんやりと世界のすべてがが遠かった。
「目が慣れるまでは少しかかるでしょう、ずいぶんと長く休んでましたからね。」
「………っ」
答えようとして、声が上手く出ないことに驚いた。
からだは重くて、喉が長時間炎天下で働いたときのようにひどく渇いている。
佐助は水差しをさしだした。
危なげない手つきと、相手の気持ちを汲む妙を得た看病から、
ふだん甲斐甲斐しく病人を看ることになれていることが知れる。
体の弱い異母弟のことを思い出した松之助の瞳が和んだ。
「一太郎旦那は?」
薄暗い部屋に差し込む光は斜に傾いている。
目が馴れてみれば陽光はずいぶんと緩やかなものだった。
時は夕暮れ時、いつもなら若旦那のそばに控えているはずの手代が何故ここにいるのか。
訪ねるため起こそうとした身体をそっと手で制された。
「しばらくは、大丈夫です。仁吉が居ますから……」
声にされた名前を聞いた途端に、松之助に瞳が揺れる。
先ほどの息苦しさが蘇って、動揺が隠し切れなかった。
名前をよぶことは、なんてことはないことのはずなのに――その奥にある想いをかいまみる気がした。
瞳の裏が熱くなり、ぼやけた視界を瞼を伏せて隠す。
迷惑をかけてはいけないと頭では充分にわかっているはずなのに、顔を合わせがたくて、
涙ににじんだ目許を引き寄せた布団の影に隠すのが精一杯だ。
「あたしも大丈夫です…から、佐助さんも戻って下さい。」
「若旦那からも松之助さんのことを言付かっているんです。」
佐助がずれ落ちた額の手拭いを桶に漬ける。
静かな室内に涼しげな水音が響いた。
松之助はいらえを返せない自分が歯痒くもあり、何を言葉にしていいのか、悩みながら床を見つめ続ける。
「それに、無理はするものじゃあない。松之助さんが誰よりも努力しているのは、分かっていますから、」
「………。」
佐助さんは人当たりの良いお人だけれど、ひいきなどはしない人のはずで、
(若旦那と言う存在は贔屓いぜんに別格のお人だからだ)
それが分かるからこそ、努力を認めてくれている。その姿を見てくれているという事実が、
別の意味で松之助の胸を熱くした。
堪えていたはずの涙が滔々と溢れて、布団を濡らす。
「……ところで、松之助さんは、なんであたしの顔を見ないんですか?」
「っそれ、は」
「今朝から目を合わせて貰えない。あたしが、何かしましたか?」
問いかける声はあくまで静かに穏やかに、それが余計に切なくさせて、
松之助は力の入りきらない両手で布団を握りしめ、精一杯首を横に振った。
「違いますっ。……違い、…ます。」
嫌われても仕方がないことをしているのは自分のほうだと、
せめて誤解を解こうと声を出すのに熱で掠れて上手くでない。
「佐助さんは、悪く……ないんです」
瞳がどうしようもなく熱くなる。見上げる天井も歪んでいた。
荒くなる呼吸に気づいた佐助が優しいてつきで額に手拭いをそえる。
そうして、自然な流れでうながすように力をかけずに目許まで深く被さっていた布団をはいだ。
首の辺りで落ち着けて、布団の乱れを整える。
一度露にされた涙は、抑えるすべを持たずに静かに溢れていき、
松之助はしゃくりあげるように喉を震わせる。
黒目がちの、今は濡れてよけいに大きく見える瞳が眼差しで佐助の手を追いかける。
「昨日濡れたまま、よく体もふかずに寝たんんじゃないんですか。」
と佐助に問われて、それが事実だったことに気付く。
「心配をかけないでください」
そう言われて、
なんだか無性に嬉しくて、
そしてとてもとても恥ずかしくて、
佐助さんの顔がまともに見れなかった。
けれど、身体を支えてくれる腕を今度はもう離したくはなかった。
そしてまた、安堵したように意識を手放した松之助の傍らで、
荒い呼吸が一定に、眠りが深くなるのを見届けた佐助が口を開く。
「貴方も、大切です。若旦那とは別の意味で、貴方も大切なんですよ。」
誰かの耳にとどけるためでなく、伝える声が、
他のだれでもなく、松之助に向ける眼差しが、
沈み行く夕陽に照らし出された横顔が何よりも穏やかで優しいものだったことを、
ただ空だけが知っていた。
――――――ー―――――――――
か わ い い !!!!!!
もうね、お前たかりすぎやろってね(笑えない
自分の気持ちに気付かない兄さんがらしすぎて可愛いです(ハアハア
佐助さんが大人だー。
うちは兄さんは自分の気持ちを知ってるけど、佐助さんが気付いてない状況なのでもうこの大人な対応の佐助さんが小憎たらしい男前…!!
仁吉と仲良しなところがまた萌えます!
あとがきを読んで更に滾りました(笑
本当にありがとうございました!!!