そうっと、伺うのは己の背中。
 まるで抱き込むように、身を寄せてくる白沢。
 その機嫌が、悪い。
 そりゃあ元から、面白おかしい性格の妖ではないけれど。
 朝方は確かに、普段と変わらぬ様子だったはずだ。
 なのに。
 犬神が仔狐たちにせがまれ、相手をしてやって、帰ってきたら、もう機嫌が傾いていた。
 
「………」

 何かしたかしら、と思うけれど。
 
「…白沢…?」
「…うん?」

 帰ってきた途端、その座した膝の間に抱き込まれたきり、特に何か言われることもない。
 伺うように名を呼べば、きちんと返事を返してくる。
 己が原因なら、そうと分かるように業とらしく口を利いてくれなくなった挙句に、嫌みったらしい言葉を投げてくるのが白沢だ。
 それもないということは、犬神が不機嫌の原因では、ないらしい。

「何かあったの、か…?」

 振り仰ごうとしても、肩に顎を乗せられている所為であまり叶わない。
 琥珀色の瞳は、じっと一点を睨みつけていて。
 何かに苛立っているらしいことは、何となく分かった。

「別に。…何もないよ」

 呟く口調には、感情の色は無い。
 何も言わないということは、犬神が聞いたところで、どうなるものでも、ないらしい。
 柔く、耳の根元を掻いてくれる指先に誘われるまま、小首を傾げながら、さてどうしたものかと考える。
 放っておいても良いのだろうけれど。
 生憎、放っておける性分でも、無い。

「犬神?」

 怪訝そうな声は無視して、白沢の腕からすり抜けると、部屋の片隅、仔狐たちの親から、貰ったままになっていたそれを、引きずり出す。
 軽い音と共に、栓を開けると、甘い香が、ふうわり、広がった。
 どんと、重い音を立てて、差し出したのは酒瓶。

「こういうときはね、呑んじまうのが一等良いらしいよ」

 と、昔何処かで誰かが言っていたといえば、白沢の眼が、驚いた様に見開かれた後、小さく、苦笑を漏らす。

「無理するんじゃあないよ。…お前酒は苦手じゃないか」
「……別にそんなこと、無い」

 一瞬、言葉に詰まったのには気付かぬ振りで。
 さっさと盃を用意すると、注ぎいれる。
 一層、酒の匂いが、部屋を満たした。

「ほら」
「…分かった分かった。…ありがとうよ」

 少し強引に差し出せば、苦笑交じりの指先が、それを受け取る。
 一息に飲み干す、その様に、犬神は満足げな笑みを、その口の端に浮かべ、ちろりと、己も盃に、口をつける。
 口腔内に広がる、噎せ返る様な甘い匂い。
 くらりと一瞬、眩暈がしたような気がしたけれど。
 己の目の前。
 やはり、心に何か苛立たせるものがあるのか、いつもよりも早い配分で、酒を煽る白沢。
 今日は付き合うと、己が決めたのだから。
 犬神は一息に、盃の中の白濁とした甘みを、その喉の奥、流し込んだ。




「だから言ったろう」
 
 半ば呆れた様に言えば、とろんとした瞳に見上げられて、思わず、苦笑を漏らす。
 己を気遣って、珍しく、酒に付き合ってくれる、その心持は、ひどく嬉しいけれど。
 盃を持つ犬神の目元は、朱に色づいて。
 強い光を宿す双眸も、今はとろんと焦点が定まらぬ様子で、ひどく危うい。
 
「悪いね」

 苦笑交じりに、耳の根元を掻いてやれば、そのままこてりと、頭を肩に預けてくる。
 触れ合う体温は、常より高い。
 ふうわり、甘い匂いが、鼻腔を擽った。
 
「機嫌…直ったか?」

 どこか熱を帯びた双眸に見上げられ、とくり、胸がざわついたけれど。 
 気取られぬよう、口元に用意したのは、苦笑い。
 
「あぁ。お陰でね」

 本当は些細な理由だった。
 最近やたらと犬神に近づこうとする者が増えてきたとか、そんな理由。
 
―ま、あたしのもんに手を出す奴なんざいないだろうから、気にすることは無いんだけど…―
 
 それでも、女狐たちが騒ぐ声を聞くのは、やはり、気に食わない。
 再び、胸に蘇りかけた苛立ちを押し流すように、白沢は盃を空けた。

「そうか…。良かった」

 ふうわり。
 ひどく、嬉しそうに、いっそ無防備に笑うから。
 思わず、また、胸が騒いだ。
 誤魔化すように、盃に酒を注げば、唐突に伸びてきた犬神の手に、奪われる。
 殆ど止める間もなく。
 ゆっくりと喉を上下させて、犬神が白濁とした仙酒を、飲み下す。
 色づいた唇から、僅かに零れた雫が、首筋を伝う。
 朱に染まる肌に、それはいっそ、扇情的だった。 

「…ふぅ…」

 そのまままた、白沢の肩に、顔を埋めてくる。
 少し覚束無い手が、珍しく己から、白沢の首筋に、絡む。
 熱を帯びた吐息が、耳朶を掠めた。

「犬神…?誘ってくれてるのかい?」

 押し流されそうになる己を、内心で必死に押し留めて。
 揶揄する様に笑いながら、背を擦れば、微かに、吐息が戦慄く。
 不意に、犬神が顔を上げた。
 酒気に潤んだ瞳と、視線が絡む。

「犬…」
「だったら?」
「え…?」

 唐突な言葉が、己の問いに対する答えだと気付くのに、寸の間、掛かる。
 その意味を理解した途端、白沢の双眸が、これ以上ないくらいに、見開かれた。

「そ、れは…あたしの機嫌を取るためかい?」

 動揺に情けなくも、一瞬、声が掠れる。
 だったらそんなことはしなくて良いと、心配げに眉根を寄せて覗き込めば、不意打ちに、首筋に噛み付かれ、鋭い痛みに、思わず、声を上げる。

「何…っ」
「そんなわけあるか馬鹿」

 不機嫌そうな声に顔を上げると、熱を帯び、潤んだ瞳に、睨みつけられた。
 朱に染まった目元に、熱い吐息。
 常より高い体温に、己から身を寄せられ、誘われて。
 堪えられるわけが、ない。
 滅多にない、というより、初めての事に、いっそ眩暈さえ覚えている自分に、白沢自身が驚いた。
 
「この酔っ払い…」
「酔ってない」

 溜息交じりに、呟けば、間髪いれず返され、声を立てて笑う。
 
「はくたく…」

 強請るように、甘えるように。
 名を呼ばれ、犬神から、口付けられて。
 本当に本当に、珍しいそれに、眩暈を覚えずにはいられない。
 頭の片隅で何かが、崩れる音を聞いたような気がした。

「それじゃあそのお誘い。お受けしましょうかね」

 膝の上、向かい合うように抱上げて。
 犬神の気が変わらぬうちに、受け止める。
 
「…うん…」

 えらく素直に頷く犬神の、その色づいた唇に、深く、口付けながら。 
 噎せ返るような甘い香りに、止まらぬ眩暈に。
 己も酔ったのかも知れぬと、白沢は一人、笑みを零した―。