顔を近づけた途端、鼻腔を突く、ろくでもない匂いに、反射的に眉を顰める。
思わず、顔を逸らしてしまえば、厳しい顔つきの仁吉に、湯飲みを持つ手を、押さえ込まれた。
「これは本当に良く効く薬なんです。きちんと飲んでください」
「……分かったよ」
諦めて、深い呼吸を、一つ。
軽く、息を止めて。
意を決して、湯飲みの中身を、飲み下す。
「ぐぇ…」
思わず、情けない声が漏れてしまうほど。
どろりとした、深緑色のそれは、ひどい味だった。
すぐさま、佐助が差し出してくれた、口直しの飴湯を、流し込む。
それでも、喉の奥、苦い匂いが、絡み付いている心地がするから、すごい。
「飲んだよ…」
「よくがんばりましたね」
ことり、溜息とともに、空になった湯飲みを盆に戻せば、苦笑とともに、仁吉が頭を撫でて来る。
まるで子供扱いなそれに、軽く唇を尖らせながら、逃れるように、振り払う。
「もう、子供扱いは止しとくれよ」
「あたしらから見れば、まだまだ赤子同然です」
澄ました顔で、返って来るいつもの言葉に、漏れるのは溜息。
隣で佐助が、困った様に苦笑していた。
「若だんな。お加減はいかがです?」
不意に、廊下から掛けられた声に、一太郎の表情が、輝く。
仁吉と佐助が、視線だけで、頷き合って。
微かな苦笑とともに、立ち上がる。
「それじゃあ若だんな、ちゃんと寝ててくださいね」
「松之助さん、後を頼みます」
二人、並んで部屋を後にするのを、見送って。
入れ違いに入ってきた義兄を、一太郎はひどく嬉しそうな笑みで、出迎える。
「これ、先ほどお客さんから頂いたんですが、番頭さんが若だんなにと」
言いながら、差し出されるのは、上物の菓子。
包みを開けば、ふんわりと、甘い匂いが、辺りに広がった。
まだ少し、喉の奥に、先ほどの苦味が、残っていたから。
丁度いいと、一太郎が笑えば、松之助も微笑を、返してくれる。
その目が、ふと、置かれたままの、空の湯飲みに、留まった。
「きちんと、お薬を飲まれているんですね」
「え?あぁ…だって、飲まなければ外に出さないと仁吉も佐助も、言うんだもの」
不服そうに唇を尖らせれば、松之助が堪えきれぬように、笑みを零す。
少し、言葉が子供じみていたかと、急に、気恥ずかしくなり、俯く。
「えらいですね。どんな苦い薬でも、きちんと飲まれて」
ふわり。
不意に、頭を撫でられ、驚いて顔を上げれば、ひどく優しい微笑とぶつかり、何故だか、とくり、胸が騒いだ。
「う、ん。慣れてるもの」
なんとなく、松之助の目が、まともに見れなくて。
視線を反らしながら、応える声が、少し上擦る。
「はやく、良くなるといいですね」
「うん」
こくんと、頷きながら。
まだ、頭を撫でて続けてくれる手が、心地良くて。
思わず、目を細めた。
「あ、すみません。…つい…」
途端、離れていってしまう手に、感じるのは名残惜しさ。
反射的に、温もりを追いかける様に、松之助の手を、掴んでいた。
「若だんな?」
怪訝そうに小首を傾げられ、はたと、我に返る。
慌てて、掴んでいた手を、離した。
「ご、ごめん。あの、気持ちよかったから…」
その言葉に、松之助が僅か、驚いた様に目を見開く。
自分でも、何を言っているんだと、思う。
気恥ずかしさに、耳まで熱い。
そもそもどうして、手を掴んでしまったかが、分からなかった。
「良かった。気分を害されたのかと思いました」
安堵した様に、笑いながら。
ふわり。
また、松之助の手が、一太郎の頭を、撫でる。
「そんなことない、よ」
応える声が、掠れる。
一層、頬が熱くなるのが、己でも分かった。
「じゃあ、そろろろ、あたしは仕事に戻りますね」
言って、今度こそ本当に、松之助の手は、離れて行ってしまう。
佐助たちを呼んでくるかどうか聞かれて、なんとなく、今のこの顔を見られるのは、嫌だと思ったから、首を振る。
「ちゃんと寝ててくださいね」
最後に、念押ししてくる松之助に、どうにか、頷き返して。
ぱたん、閉じられた障子に、感じるのは、安堵感と、それより強い、寂しさ。
遠ざかっていく足音を聞きながら、倒れこんだ布団の上、そっと、瞼を閉じる。
自然、思い描くのは、先程、己に向けられた、松之助の笑い顔。
とくり、また、胸が騒いだ。
「松之助さんには、怒らないんだねぇ」
不意に、背中からかけられた声に、びくり、背が震える。
「屏風のぞき…」
振り返れば、揶揄する様な笑みを口元に刷いて、此方を見つめる市松模様と目が合った。
「何がだい?」
小首を傾げつつ、言葉の意味を問えば、屏風のぞきの笑みが、一層、深まる。
楽しげに扇子で口元を隠しながら、ついと、視線だけで、障子の向こうを、指し示す。
「さっきのやつさ。仁吉さんに頭を撫でられた時は、「子供扱いするな」って、怒ってたくせに、松之助さんの時は、えらく嬉しそうだったじゃあないか」
「そんなこと…」
「ないとお言いかえ?」
切れ長の目が、揶揄する様に笑うから。
こくんと一つ、頷いてみる。
「ほぉう。だったらそういうことにしとこうじゃあないか」
「…何が言いたいんだい?」
怪訝に、眉根を寄せて問い質しても。
屏風のぞきは澄ました顔で、笑うだけ。
「さぁて。それは若だんなが一番知ってることだろうさ」
「………私が?」
小首を傾げても、もう、屏風絵は答えてはくれなかった。
含みの有る物言いが、引っかかる。
布団の中、反芻するのは、屏風のぞきの言葉。
―確かに、どうして…―
思い出すのは、温かな、松之助の手。
知らず、また、胸が騒いだ。
―どうして…―
松之助のことを思うだけで、胸が騒ぐのか。
頬が熱くなるのか。
その意味を、知らなければと思うのに。
薬が効いてきたのか、意識はもう、ばらけ始めて。
結局、眠りの海に、引きずり込まれてしまう。
―どうして…―
その意味を、一太郎が自覚したのは、それからまだ、もう少し先のことだった―。