ばたばたと、慌ただしい足音が、廊下に響く。
伊三郎は読んでいた書物から顔を上げ、苦笑を一つ。
間をおかず、勢い良く開けられた障子を、振り返る。
「これ屏風のぞき。妖が昼の日中から…」
「そんな暢気なこと言ってられないよっ!あいつをどうにかしとくれ!」
ぴしゃりと、まるで何かから逃れるようにぴったりと障子を閉じ合わせると、掴みかからんばかりに詰め寄ってくる。
いつもと同じ言葉に、伊三郎は苦笑するしかない。
そしてやはり、向けるのはいつもと同じ言葉。
「犬神も白沢も良い子だよ」
「どこがっ?…どちらも気に食わないが確かに犬神の方はまだましだ。けどあいつはどうにも無理だ鬼より鬼だよっ!」
また、何かあったのか。
一息に詰る右頬が赤くなっている。
膏薬があったはずと探す背中で、尚も零す屏風のぞきに、伊三郎は微笑いながら、口を開く。
「屏風のぞきは白沢が嫌いかい?」
「大嫌いだよっ!」
間髪を入れずに返ってきた答えに、声を立てて笑いそうになり、必死に堪える。
膏薬を差し出してやりながら、ついでに茶も、煎れてやる。
「どうして?」
「決まってるじゃないか。やたらと威張り散らすわ無駄に嫌味ったらしいわ訳のないことで殴られるわ蹴られるわ…この間なんて井戸に放り込まれそうになったんだよっ?あたしが元が紙だと知っててやるんだ!他の奴らにゃ多少は良い顔するくせに毎回々々あたしばっかり執拗にっ!」
指折り数えて罵る屏風のぞきの言葉に、流石の伊三郎も眉根を寄せた。
「井戸はよくないねぇ」
「だろうっ?だからとっととあいつを…」
「けど白沢にも良いところは沢山あるんだよ」
のんびりと笑い遮れば、屏風のぞきの眼が、驚いた様に見開かれたあと、がくり、脱力するように肩を落とす。
「白沢には私からも言っておくから」
「……うん」
力なく頷いて、俯いてしまった屏風のぞきの頭を、ふわり、撫でる。
「気に食わないところもあるかもしれないけど、仲良くしとくれ」
「………旦那の頼みなら断れないじゃないか」
まるで幼子の様に唇を尖らせながら、拗ねるように零された言葉に、思わず、微笑する。
「お前は良い子だよ」
笑い告げれば、一瞬、驚いた様に目を見開いた後、呆れたように溜め息を吐かれた。
「今日は守狐はいたかね?」
いれば、二人で気晴らしに出掛けてみてはと言えば、心底つまらなさそうに、ふるり、首を左右に打ち振られる。
どうやら、彼の狐はまた、神の庭に行っているらしい。
「そうか…」
「一局付き合っとくれよ。久しぶりに」
挑むように笑う屏風のぞきに、笑って頷けば、碁盤を引き寄せてくる。
じゃらり、碁石を握った時。
不意に、背中の障子が、開いた。
さっと、流れ込んでくる外気が、冷たい。
「………っ」
目の前の屏風のぞきの顔が、目に見えて強ばるのに、宥めるように視線を一つ、投げて。
苦笑を用意して振り返れば、案の定、小僧らしからぬ、不機嫌そうな顔面を下げた仁吉がいた。
「部屋に入るときは一声かけて…」
「ここに居たのか紙っぺら」
「――――っ」
伊三郎を無視する様に、投げつけられた言葉に、屏風のぞきの眦が吊り上がる。
けれど、伊三郎と視線が合うと、先の言葉を思い出したのか、何かを堪えるように押し黙ったまま、ふいと視線を逸らす。
その様に、思わず笑みを零しそうになったが、先ずはと、仁吉に向き直った。
「白沢。皆と仲良くしなけりゃあ駄目じゃあないか」
「そいつを躾直してやってるだけです」
「な…っ誰が………っ!」
目を剥いていきり立ちかける屏風のぞきを片手で制す。
「屏風のぞき。今日はすまないが、一旦部屋に戻っておくれな。…また明日、きっと相手になるから」
「……旦那が言うなら…」
苦笑混じりに告げれば、不承不承といった風に頷いて、仁吉の横を通るのも嫌なのか、そのまま部屋の影に、溶け消える。
その様を眼を眇めて見ていた仁吉も、屏風のぞきの後を追うように、くるり、踵を返しかけた。
その手を、掴む。
「ちょいと、いいかい?」
「…何でしょう」
貼り付けた様な無表情で見上げてくるのに、苦笑しながら、結局、手をつけられることのなかった湯呑みを、そのまま勧めてやる。
「まぁ座りなさい」
「…………」
ひどく面倒臭そうに、けれど、きちんと膝を揃えて正座する仁吉。
「頂いた菓子がこの辺りに…」
「鈴君」
その小さな姿に、つい、菓子を探しかければ、棘のある声に、名前を呼ばれ睨まれる。
「茶のみ話がしたいなら犬神を呼んできます」
「いや、すまない。つい、ね」
照れ笑えば、返ってくるのは冷たい視線。
相変わらずの様に、内心で苦笑しながら、ではと、本題を切り出す。
「どうしたって、屏風のぞきばかり苛めるんだい?」
「鈴君はあいつに甘すぎます。だからつけあがるんです」
ぴしゃりと言い切られ、そうかしらと小首を傾げる。
「でも、あの子は良い子だよ」
「役に立たない紙っぺらですがね」
言う、その唇に浮かぶのは冷笑。
一瞬覗いた、白沢の顔に、伊三郎は窘める様に視線を投げた。
「あまり悪しざまに扱うと、本当に嫌われてしまうよ?」
困ったように眉根を寄せれば、ふんと、鼻で笑われる。
ふうわり。
湯呑みから湯気が、上がる。
「好きな子は大切にしないと」
障子に区切られた、午後の日差しは暖かい。
屏風のぞきの赤く腫れた頬を思い出して、伊三郎は一人、心配そうに溜め息を吐いた。
「……は…?」
思い切り、間が空いた後。
零された疑問符に顔を上げれば、訝しげに片眉を引き上げた仁吉と、視線が合う。
「だから、好きな子には優しく…」
「誰と誰の話をしてるんです」
繰り返す言葉を遮る様な問い掛けに、今度は伊三郎が、訝しげに小首を傾げた。
「お前さんと屏風…」
「ありえません」
皆まで言う前に言い切って、そのまま立ち上がり、障子に手をかける仁吉。
躊躇いなく出て行こうとするその背に、慌てて声を掛ける。
「兎に角、苛めちゃあいけないよっ!」
返事の代わりに、ぴしゃり、閉じられてしまう障子。
後に残され、午後の陽射しに柔く滲んだ、等間隔に区切られた障子紙を眺めながら、一人、零すのは笑み。
「あの白沢がねぇ…」
本人はまだ、自分の気持ちには気付いていないようだけれど。
他者に対して無関心なところのある仁吉が、ああまで構うのは、そういうことだろう。
こういうものは何れ時間の問題と、伊三郎は思う。
「二人とも良い子だもの」
幸せな形になれば良いと、心から思う。
のんびりと一人、随分と温くなってしまった茶を啜りながら。
明日は屏風のぞきに、白沢の良いところを教えてやろうと、伊三郎は一層、その笑みを深くした。