ざわめく人の声はどの人も皆、色めきだって。
いつに無い盛況に、この日は特にと、栄吉も、店主の声にも気合が入る。
その忙しなさに、菓子を買いに行くといった一太郎に、佐助が自分を供に着けた理由が、分かった様な気がした
「すごい賑わいですねぇ…」
自分達に気づき、「少し待っていてくださいね」と、視線だけの笑顔で告げる女将に、軽く会釈を返ながら、呟く松之助に、一太郎が頷く。
「稼ぎ時ってやつだものねぇ…」
忙しない人の流れを、二人、並んで見つめる。
今店に入っても、人に揉まれるばかりで、ろくに菓子を見ることもできないだろうと、外で待つことにした。
店の軒先、邪魔にならぬ様隅に、移動すれば、樋を伝う雨音が涼しい。
見上げれば、頭上に立ち込めるのはどんよりとした雨雲。
傘を差すほどではないけれど、降りそぼる小雨に、冷える空気に、松之助が心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。涼しくて心地いいし」
安心させるように笑いかける一太郎に、それでもと、持ってきた羽織を一枚、着せ掛けてやる。
「大丈夫だってば」
けれど、言葉とは裏腹に、拒む気配は無く、差し出されるまま、袖を通す一太郎。
こんな天気だけれど、それでも、三春屋の客足は途絶えることは無くて。
手持ち無沙汰なのか、念の為にと、一本だけ持たされた傘を、くるりと回しながら、一太郎が口を開く。
「菓子、売切れてしまうかな」
「大丈夫ですよ」
少し不安げに零された言葉に、今度は松之助が、安心させるように笑いかける。
己を振り仰いだ一太郎と目が合い、二人、交わす笑顔。
雨の所為で柔くなった砂を、草履の先でなぞる。
ぼんやりと、目の前を行き過ぎる人々を眺めていた時だった。
「一太郎っ」
栄吉の声に振り返れば、ようやっと客足が途絶えたのか、笑い顔が手招く。
招かれるまま、店に入れば、どの棚も随分と閑散としていた。
「すまねぇな。直ぐ追加分を作るから」
すまなそうに眉尻を下げる栄吉に、一太郎は笑って、やんわりと断る。
忙しい合間に不意に訪れた休憩を、邪魔したくは無いのだろう。
松之助が見守る先で、売れ残った菓子をいくつか、見繕う一太郎。
差し出された包みに、金子を払いながら、その場で一つの包みを開き始めた。
「若だんな…?」
此処で食べるのかと、怪訝そうな顔をする松之助にゆるく微笑んで、一太郎は取り出した菓子の一つを、栄吉に差し出す。
「はいこれ。今年の分」
「おぅ。ありがとうな。…っとこれ」
そう言って栄吉が差し出したのは、己の店の菓子。
礼を言って受け取る一太郎に、松之助の中で合点が行く。
「栄吉さんと交換を?」
松之助の問いに、二人が、頷く。
栄吉が照れたように笑いながら、口を開いた。
「まだ小さかった頃、俺は菓子屋の息子だから、交換する相手なんかいないと言ったら、一太郎が買った菓子をくれましてね、それで俺も…」
「それからずっとだよね」
「うん」
二人の、やり取りに、松之助の知らない、幼い日の一太郎を垣間見る。
今と変わらぬ優しさで、友に触れていたのだと思うと、その微笑ましさに、自然、松之助の目元が和んだ。
「それじゃあ…あんまり長居しちゃあ邪魔になるから…」
「悪いな」
また、増え始めた客足に、忙しく働きながら返す栄吉に手を振って、二人、包みを抱えて三春屋を出る。
随分量が多いと思ったけれど、その疑問を口にすれば、「薬種問屋の常連さんにもあげるから」と言われ、納得する。
―本当は、離れの妖たちの分なのだけれど―
己の咄嗟の嘘を、信じてくれた兄に、一太郎は心の裡で、小さく詫びた。
耳を澄ませば、ようやっと捉えられるほどの、かすかな雨音が、一太郎が濡れぬようにと差し出された傘を打つ。
視界の端、木戸に沿うように植えられた紫陽花が、こんもりと茂り、青々とした葉の上、濃い色の花を、しっとりと濡らせていた。
その木戸を潜る手前、不意に立ち止まった一太郎が、がさりと、包みを開く。
「はい」
言われ、差し出された菓子を受け取る。
初めてのそれに、戸惑いつつも、松之助も、買った菓子を一太郎に差し出した。
「ありがとう」
向けられる嬉しそうな笑顔に、つられ、照れたように笑う。
前の奉公先では考えられなかったけれど、長崎屋では皆がこうして、この日は菓子を送りあっていた。
今朝方、その光景を目にしたとき、やはり大店というのは違うと、改めて思ったものだった。
不意に、一太郎の指が、松之助のそれに絡む。
「兄さんに幸福がありますように」
祈るように目を伏して、囁かれた言葉に、松之助は一瞬、驚いたように目を見開いたけれど、それは直ぐに、穏やかな微笑に変わって。
同じように目を伏して、囁く。
「一太郎に幸福がありますように」
顔を上げると、ひどく優しい微笑を浮かべる一太郎と、目が合う。
二人、交わす微笑。
「あ…っ?」
唐突に手の中の傘を取り上げられ、ぐっと、首を抱きこまれ、屈まされる。
掠めるように、唇に触れた柔らかな感触。
傘の陰に隠れて口付けを交わしたのだと理解した途端、かっと、目元が熱くなる。
身じろいだ背が、紫陽花にぶつかり、濡れた。
「い…っ若だんなっ」
思わず、名前で呼びそうになり、慌てて言い直して詰るように叫べば、悪戯を仕掛けた子供の様に笑う一太郎。
その邪気の無い笑顔に、溜息を一つついて、返すのは苦笑。
傘を取り返すと、冷えぬうちにと、その背を促す。
―あたしは…―
その背に、心の裡、想う。
―あたしは一太郎の傍に居れたらそれだけで幸福だよ…―
傘を差しかける松之助の目元、ひどく優しげな、満ち足りた微笑が、浮かんでいた―。
水無月の十六日。
互いに送りあった菓子は、ひどく優しく、甘い味がした―。