きゅわきゅわきゅわ…。
廊下で鳴家の声がする。
誰か来たなと思った先、からりと開く、離れの障子。
「屏風のぞきっ」
意外な来客に、屏風のぞきは屏風の中で、起用に片眉を吊り上げ、すっとその細く白い指で木戸を指す。
「若だんななら…」
「一太郎なら三春屋だろう?」
さっき出て行くのが見えたものと、遮るおたえに、いよいよ来室の意が掴めず、屏風のぞきは小首を傾げつつ、のそり、屏風から身を乗り出す。
「若だんなに用が無いなら…どうしたんです?」
「お前に用があるんだよぅっ」
まるで子供のように、ひどく嬉しそうに目を輝かせて己の向かい、勢いよく座り込んだおたえに、屏風のぞきが更に深く、首を傾げる。
そんな様を、いたずらを仕掛けた子供の様に、上目で見つつ、おたえは懐に手を差し入れ、何かを取り出す。
「今日箪笥の整理をしていたらね…これが出てきて…」
おたえの手の中の物を認めた途端、屏風のぞきの目が、驚いたように見開かれた。
「へぇ…こりゃまた…懐かしいですね」
その口の端、浮かぶのは言葉通り、ひどく懐かしげな、微笑。
「だろう?」
頷き、屏風のぞきの反応に満足げに笑うおたえの瞳にも、懐かしむ色が、滲んでいた―。
「おっかさん…?」
呆然とした一太郎の声に振り返れば、驚いたように己を見詰める一太郎と目が合い、次に、その手に持たれた菓子の包みが目に入る。
「今日の出来はどうだい?」
しゃらん。
立ち上がれば、微かに揺れる音が、耳に心地よい。
懐かしい音色に屏風のぞきは、機嫌よく口角を上げつつ、未だ呆然としている一太郎の手からひょいと包みを取り上げ、がさり、開けば物の見事に大きさの不揃いな饅頭が姿を晒す。
「見目形は相変わらずいまいちだねぇ…」
言いながら、一つ摘んでみれば、味はそこそこ。
「屏風のぞき…お前…その頭…」
菓子に釣られ、出てきた鳴家たちに仕方なく分けてやれば、ようやっと我に返った一太郎が、己を見上げていた。
「ん?あぁこれかい?」
言いながら手をやれば、しゃらん、とまた微かに音を立てる。
おそらく、おたえが結い上げたのであろう、髪の根元、飾るのは一本の、少し型遅れな、けれど一目で上物と分かる銀細工の簪。
当然、男するものではないけれど、何故だか屏風のぞきには妙にしっくりと似合っていた。
派手な、形が似合うだけの、整った顔立ちに、それはいっそう華を添えて。
「似合うでしょう?屏風覗きは顔が綺麗だもの」
にこにこと、櫛を片手に笑うおたえに、一太郎は飲まれたように、ただ頷く。
「おっかさんが結ったんだよ」
どこか誇らしげに、微笑むおたえ。
「箪笥を整理してたら出てきてねぇ…昔は良くこうやって遊んだものだよ」
「ねぇ?」と同意を求められ、屏風のぞきは過去を思い出してか、少し苦い笑を滲ませ、頷く。
「へぇ…おっかさんも妖たちと遊んでいたんだ…」
考えてみれば、母は己よりも妖の血が濃い。
それも道理かと、一人納得したように頷く一太郎の傍ら、今度は屏風のぞきが口を開く。
「化粧の練習もねぇ?おかみさんに見つかると叱られるからって、あたしが道具一式預かって…」
「そうだった、そうだった。…お母様ったらお前にはまだ早いと、ちっとも使わせてくれなくて…」
「まだ十を過ぎたばかりの頃ですからね」
懐かしそうに、少し照れたように笑い、己の知らぬ昔を語るおたえを、一太郎は不思議そうに見詰めていた。
「まだあるのかい?」
「ありますよ」
言いながら、屏風のぞきが何処からか引っ張り出してきたのは、一太郎にも見覚えのある化粧道具。
「うわぁ懐かしいねぇ…ちっとも傷んでない…」
おたえの言う通りなら、化粧品はもう随分傷んでしまっているはずなのに、屏風の中という妖の不思議が働いたのか、少しの傷みも見受けられなかった。
「屏風のぞき…これ、あの時の…」
「ん?あぁそうさね」
吉原の騒動を思い出して、一太郎と二人、苦笑を交わす屏風のぞきたちを、今度はおたえが、不思議そうに見詰める。
しゃらん。
屏風のぞきが頭を動かす度、その艶やかな黒髪を飾る銀飾が、微かに奏でられる音はひどく綺麗で。
涼やかなその音に、鳴家たちも時折、顔を上げては、なんだかいつもと違う屏風のぞきを見上げ、小首を傾げていた。
「さて、おっかさんはそろそろ戻ろうかね…」
「あ、おかみさん、これ…」
立ち上がりかけるおたえに、屏風のぞきが簪を返そうと手をやった時。
「おや、おかみさんもいらしたんですか」
不意に響いた声に皆が振り返った先、鉄瓶を手に、仁吉が立っていた。
「若だんなが三春屋に行かれるのが見えたので…」
茶を持ってきたのだという仁吉は、予想外に多かった頭数に、新たに湯飲みを用意する。
「仁吉も見ておくれな。屏風のぞきったら似合うでしょう?」
立ち上がりかけた腰を落ち着け、また、あたしが結ったんだよと、誇らしげに微笑むおたえに、仁吉はちらと、その視線を、注ぐ湯から屏風のぞきに遣って、再び、湯飲みに戻す。
こぽこぽと、温かな水音が響く。
何を言われるのかと、涼やかな目元を吊り上げながら身構える屏風のぞきに、一太郎がひやり、焦った時だった。
「そうですね」
さらり、表情一つ変えずに言われた肯定の一言に、一太郎と二人、屏風のぞきは呆けたような表情を晒す。
「でしょう?」と、ころころと嬉しげに笑うおたえ。
通りを行過ぎるも物売りの声が、ひどくのんびりと、離れの空気を震わせた。
二つの湯飲みを、おたえと、相変わらずほうけたように己を見つめる一太郎に渡しながら、顔を上げた仁吉と、まとも、視線がぶつかる屏風のぞき。
じっと無表情に見詰められ、思わず半身、後退る。
しゃらん。
銀糸が、揺れる。
屏風覗きの顔から、仁吉の視線が、そちらに動く。
「よく、似合っているよ」
真顔で言われ、面食らう。
揶揄っているのかと思ったが、己を見つめる瞳に、常の、人を小馬鹿にしたようなあの影は無くて。
本気で言われたのだと分かり、慌てて視線を逸らす。
「あ…あぁそうかい。…あ…ありがとうよ」
上ずる声が、情けない。
熱くなる頬に、意識を散らすように、自分で鉄瓶から茶をいれ、啜る。
「さて、今度こそ本当に戻るとするよ」
そんな屏風のぞきの様子は気にも留めないのか、ことり、湯飲みを置いて、おたえが立ち上がる。
慌てて簪を返そうとすれば、「昔みたいに遊ぶわけじゃなし。貰っておくれ」と言われ、高直なそれに、思わず戸惑う。
「似合ってるんだもの」
それだけで、己にやると言うおたえは、やはり大店のおかみだと、屏風のぞきは思った。
「あ、そうだ一太郎。調子が良いんならおっかさんと一緒に菖蒲の花を見に行かないかい?」
思いついたような、不意の誘いに、一太郎は戸惑い、いつも厳しい兄やを見遣る。
近くの寺院に咲く菖蒲の園は、今が盛りだ。
毎年寝込んでは見逃していたので、自然、仁吉を見詰める一太郎の視線に、期待はこもる。
息子と二人で出かけることなど久方ぶりなおたえも、期待を込めて仁吉を見詰めた。
二人の視線を受け、仁吉は一瞬、逡巡する素振りを見せた後、天候を確かめ、ついでに一太郎の額に手を遣り、体調も確かめて、一つ、頷いた。
「おかみさんもいっしょなら…。良いですよ」
「ちゃんと小僧を供に付けて下さいよ」と続く言葉に、母子は喜色を浮かべて、連れ立って部屋を後にする。
遠ざかる足音を聞きながら、屏風のぞきは仁吉と二人、取り残されたことに気付き、慌てて屏風の中に引っ込もうと腰を浮かす。
しゃらん。
途端、奏でられた涼やかな音に、顔を上げた仁吉の、強い視線に捕らえられ、思わず、動きを止める。
「な…何…」
「……」
無言のまま、すっと、唐突に伸ばされた手に、反射的に身を竦めた。
それは柔く、屏風のぞきの耳を掠めて、その後れ毛を掻き揚げる。
珍しい行動に、屏風のぞきはただただ、固まるしかなくて。
しゃらん。
仁吉の指先が触れたのか、銀飾が揺れる。
結い上げられ、露になった白い項を、なぞられ、思わず、震える吐息。
「…っ」
そのまま引き寄せられ、重なる唇。
割り開かれ、絡める舌に、きゅっと目を閉じる。
腕を絡ませれば、更に深く口付けられて。
「…ふ…っ」
ようやっと、開放された頃には屏風のぞきの目元は、朱に染まっていて。
僅か、乱れた吐息。
しゃらん。
揺れる、銀飾。
艶やかな黒髪は、仁吉に手を差し込まれた所為で、微かに乱れ、後れ毛をその白い項に落として。
その全てが、どうしようもない程、艶を孕んでいた。
「本当に…良く似合うよ」
「―――っ」
耳元で低く囁けば、屏風のぞきが、反射的に身を強張らせる。
あまりにも素直な反応に、仁吉が喉の奥底、押し殺した笑いを漏らせば、きっと睨みつけられた。
そっと、指先で銀飾に触れれば、鼓膜を震わせる涼やかな音色。
その指先で、屏風のぞきの首筋から鎖骨を辿れば、艶を孕んだ吐息が、鼓膜を震わせる。
「二人が帰って来るまで、まだ時間はあるねぇ…」
心底楽しげに笑って、屏風のぞきを覗き込む。
朱に染まった目元、微かに潤んで見えるのは、気のせいではないだろう。
「止める気も無いくせに…」
言いながら、絡んでくる腕に、仁吉の口元、浮かぶのは、ひどく満足げな笑み。
しゃらん。
涼やかなその音の下、二人はそっと、互いの熱を交し合った―。