「新龍さんのたつは見事だったねぇ」

 一太郎の言葉に、箱根でのことを思い出してか、松之介が苦笑して、頷く。
 無意識のうちに、傷ついた足首へと手を伸ばしてしまい、それに気付いて、また、内心で苦笑。
 その指先に気付いたのか、一太郎が心配げに眉根を寄せた。

「足、大丈夫?」
「えぇ。もう大丈夫ですよ。…あの時は若だんなにも迷惑をかけてしまって…」
「そんな…!気にするようなことじゃあ無いじゃない」
 
 存外、強い言葉で否定する義弟に、思わず、松之介から笑みが零れる。
 その笑みに、知らず篭ってしまったのだろう、肩の力を抜いて、安堵の息を吐く一太郎を見る松之介の目は、ひどく優しい。

「本当にね…兄さんを一人崖底に置いて行ったなんて…どうしてくれようかと思ったけれど…」
「わ…若だんな…っ」

 さらりと、付した視線の先、畳の目なぞなぞりながら言う一太郎に、思わず、焦る。
 普段、のんびりと優しい心根の義弟が、不意に見せる、こういった一面に、松之介は時々、ひどく戸惑うことがあった。

―仁吉さんや佐助さんも、少し人の変わったところがあるから…―

 その影響かしらと、ぼんやりと思う。
 だとしたら、いつも一緒に居る時間の長い、仁吉の影響が色濃いのだろうか…。
 そんな事をつらつらと考えていると、一太郎がぽつり、呟く。

「刺青って、一生消えないんだってね」
「え?あぁ…。そうらしいですね。彫るときはひどく痛いとか」

 ぼんやりと、庭を眺める一太郎につられるように、障子の向こう、新緑の若葉も眩しい庭に、視線を遣りながら、返す。
 ざわりと、風が走って、木々を揺らした。
 それは微かに、湿気を孕んでいて。
 何気なく視線を上げれば、なるほど、空は今にも泣き出しそうで。

「今私が死んだら、刺青みたいに、兄さんの中に一生残ることができるかしら?」

 雨が降る前に障子を閉めようと、立ち上がりかけた動きが、止まる。
 思わず振り返ったその先、一太郎はやはり、ぼんやりと、頬杖さえ着いて、庭を眺めていて。
 まるで、空模様を尋ねるように、ごく自然に漏れた疑問なのだと、思い知る。
 それほどまでに、この義弟にとって、死は身近なものなのか
 その事実に、そして同時に向けられた、己への想いの強さに、松之介は寸の間、息を詰めた。
 その、詰めた息をゆっくりと吐いて、一太郎と向き合うように、座り直す。
 ざわり、また、風が吹いて、背中でぽつりと、木々の葉を雨が打つ音が、聞こえた気がした。

「あたしは、一太郎が死んだらきっと、一太郎のことばかり、毎日考えて過ごすだろうね」

 その言葉に、一太郎は一瞬、驚いたように目を見開いた後、その口の端、微笑を浮かべかけた。

「でも」

 それを遮り、言葉を続ける。
 ぽつり、ぽつり、大きくなる背中の雨音。
 雲が流れたか、部屋の中が不意に翳った。

「あたしは一生、一太郎の傍に居るほうが、良い」

 一太郎の白く、細い手指に、己のそれを、絡ませる。
 それは確かに、暖かくて。

「こうやって、触れ合えるところに居るほうが、良い」

 ただただ、驚いたように自分を見上げてくる一太郎に、松之介は無意識に、篭ってしまった肩の力を抜いて、息を吐く。
 ゆくっりと視線を上げ、一太郎のそれと、ひたり、合わせる。
 きゅっと、絡ませた手指に力を込め、言葉を紡ぐ。

「あたしは、一太郎と生きていたいよ」

 だから、簡単に死など口にしないで。
 それは、もう二度と触れられなくなること。
 もう二度と、声が聞けなくなること。
 もう二度と、逢えなくなることだから。
 そんな哀しい孤独を、口にするなと、絡めた指先、縋る様に力を込める。

「兄さん…」

 雨音が一層、大きくなった。
 本格的に降り始めたのが、冷えた空気で、分かる。

「ありがとう…」

 少し掠れた声で、今にも泣き出しそうな、けれど、ひどく嬉しそうな笑い顔で、一太郎はぎゅっと、松之介の手を、握り返してきた。

 冷えた空気の中、絡めた指先から流れ込んでくる互いの体温が、ひどく、暖かだった―。