「また負けた」
ぽつんと、零された言葉に、一太郎は小さく、苦笑を漏らす。
「随分身が入ってないみたいだもの」
言われ、屏風のぞきがひょいと、片眉を上げる。
けれど、それはすぐに顰められた。
「そんなことないよ」
不服そうに、漏らすのは、否定の言葉。
「おや、そうかね。…私の勘違いかしら」
「そうだろうさ」
碁石を片付けることで、器用に自分の視線から逃れる屏風のぞきに、それ以上の追求はせずに、内心で小さく、また、苦笑を零す。
―守狐も長い事見てないからねぇ…―
寂しいとは、意地の張った憑喪神。
死んでも言わないだろうけど。
―でもねぇ…―
そっと、友の顔を盗み見る。
鳴家と何事か言い合う姿はいつもと変わりないけれど。
それでも。
その切れ長の目が、ふとした瞬間に、虚空を見つめることが多くなってきたのに、気付かない一太郎ではなかった。
「寂しいならそう言えば良いだろう」
唐突に降ってきた言葉に、一瞬、己が無意識に口にしてしまったのかと、ひやりとする。
見れば、傍らの佐助が、呆れたような顔をしながら、茶を入れていた。
「な、にがっ?」
応える、屏風のぞきの声は、いっそ哀れなほどに上擦っていて。
色の白い目元が、微かに赤い。
「守狐殿が中々戻って来れないから、寂しいんだろう?」
かっと、屏風のぞきの頬が、一息に赤くなる。
部屋に響く、奇妙に上擦った、怒号。
「だ、誰がっ!あたしはなんとも思っちゃいないよっ」
それがなんとも思っちゃいない奴のする顔かと、誰もが思ったけれど。
ぷいと、拗ねるようにそっぽを向いたまま、屏風に引っ込んでしまった背に、佐助が呆れたように溜息を付いた。
「強情ばっかり張ってると、そのうち良くないことが起こるぞ」
「………」
そっぽを向いたままの屏風絵は、何も応えない。
もう一度零される溜息に、一太郎が苦笑したとき。
「おや、佐助も居たのかい」
からり、開いた障子と同時に、掛けられた声に振り返れば、仁吉が意外そうな表情で立っていた。
その傍ら、人好きのする笑みを湛えるのに、一太郎の目が、大きく目を見開かれる。
「守狐!」
呼べば、狐の尾が、応えるようにふんわりと揺れる。
仁吉が後手に障子を閉めながら、思い出したように、その形の良い唇に笑みを刷いた。
「つい先程戻られたようで。薬を届けてくださったんですが…ついつい話し込んでしまいましてね」
「何をそんなに話してたんだい?」
薬のことからは出来るだけ遠ざけたくて。
小首を傾げる一太郎に、守狐が笑いながら口を開く。
「詮の無い昔話ですよ」
その言葉に、そう言えば、この二人の付き合いは随分長いのだと、気付く。
当然、共有する過去も多いのだろう。
ほんの少し、感じる疎外感。
ふと、気配を感じて顔を上げれば、じっと、屏風のぞきがこちらを見つめていた。
当然、守狐がそれに気付かない訳がない。
「ただいま」
ふんわりと、向ける笑みは、ひどく優しい。
それは、屏風のぞきのみに向けられる表情なんだろうなと、一太郎はぼんやりと思う。
これで、屏風のぞきの機嫌も直るだろうと、そう、思った。
「………」
けれど。
無言のまま、屏風のぞきは守狐の傍らをすり抜ける。
その横顔に浮かぶのは、何故か、不機嫌そうな色。
「屏風のぞきっ?」
驚いて、声を掛けたけれど。
市松模様の背中は、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「少し、失礼しますね」
困惑に視線を投げかければ、守狐が苦笑して、席を立つ。
その狐の姿が、ゆらり、揺らぐ。
つい今し方、消えた市松模様を、同じぐらい細い人の背が、追った。
「一体どうしたんだい?」
背に掛かる、苦笑交じりの声に、振り返れば、やはり、困った様に笑う守狐がそこにいて。
ふんと、そっぽを向く。
白梅の、綻び始めた香がmやたらと鼻についた。
背に当たる陽は温かいのに、頬を撫でる風は冷たくて。
冬なのか春なのか良く分からない陽気にさえ、苛立った。
「別に」
じっと、足元の小石を、睨みつける。
思い出すのは、先程の楽しげな声。
詮の無い昔話と、守狐は言ったけれど。
自分の知らないそれに、弾き出された様な疎外感を感じた。
何より、一番に己のところに来てくれなかったことが、気に食わない。
自分はずっと、待っていたのに。
けれど、そんな、まるで幼子の我侭のようなこと、言えるわけが無くて。
「だったらどうして、そんなに拗ねてるんだい?」
「誰が…っ!」
思わず、頬に伸ばされる手を、振り払っていた。
力が、巧く加減できなくて。
大きく響いた、乾いた音に、自分で驚いた。
「あ…」
強く、打ってしまった。
守狐の、細く白い手が、ほんの少し、赤くなっている。
「もり…」
呼びかけた声が、宙に浮く。
糸のように細い目が、屏風のぞきを射抜く。
笑みの形を作るそれは、けれど、笑ってはいなかった。
「そうかい。じゃあ私は、おたえのところに戻るとするよ」
「――――っ」
口調は、いつもと変わらぬ優しいそれだったけれど。
その声音の奥底、ひどく冷たい響きが、滲んでいた。
「待っ…」
止めるより早く。
その姿は、影に溶け消えた。
じわり、身の裡を、不安が満たす。
小刻みに震えだした指先は、寒さの所為ではなくて。
初めてだった。
あんな眼で見られたのは。
あんな声を聞いたのは。
初めて、怒らせてしまった―。
ふと、部屋の前に気配を感じて、佐助は顔を上げた。
応えるように、仁吉が、障子を開く。
「何だいお前」
不機嫌そうな声に、佐助が肩越しに覗き込めば、薄闇の中、屏風のぞきが、所在無げに立っていた。
その瞳は、ひどく危うい色を湛えていて。
大方の予想がついてしまい、思わず、内心溜息を付く。
開いた障子から入り込んでくる冷気が、寒い。
首筋を撫でるそれに、思わず身を竦めながら、佐助は仕方なさそうに、入れと顎をしゃくった。
「で、何の用だい」
不機嫌さを隠そうともしない仁吉の問いかけにも、常なら噛み付いてくるはずなのに。
今はそれすらも無い。
「守狐が…戻ってこないんだ…」
力なく零された呟きに、佐助は片眉を引きあげる。
昼間、出て行った屏風のぞきを、守狐が追いかけた。
けれど、暫くして、帰ってきたのは、青ざめた屏風のぞきだけで。
何かあったのだろうとは思っていたが。
真逆あれから一度も、離れに姿を見せていないとは、少し意外だった。
「守狐殿も愛想が尽きたんだろうさ」
「仁吉っ」
呆れたように吐き捨てられた言葉に、咎める様に鋭く名を呼べば、不機嫌そうにそっぽを向かれる。
思わず、溜息を零しそうになった。
「そうだったら…もしそうなら…どうしよう…」
震える声に、ぎょっとして屏風のぞきに視線を戻せば、白い頬を、ぼろぼろと涙が零れていて。
ぱたりぱたりと、畳に小さな染みを作る。
ぎゅうと、膝の上、握りこまれた手は、関節が白く浮き出る程。
小刻みに震えるそれに、相当追い詰められているのが見て取れて、佐助はつっと、眉根を寄せた。
けれど仁吉は、そうではないらしく。
「きっとそうだろうさ」
「仁吉っ!」
ふんと、鼻で笑いながら吐かれた言葉に、一層、屏風のぞきは震えだす。
「もうお前が居ると余計ややこしい。暫く隣の部屋にでも居とくれ」
「何であたしが…っ」
怒鳴りかけるのを、佐助は無理矢理、隣の間に押しやって、ぱたんと、襖を閉める。
納得できないと、吠える声を、結界で遮ってしまった。
仁吉には悪いが、こうでもしないとろくに話も聞けない。
後のことを考えると、眩暈にも似た頭痛を感じずには居られなかった。
「強情張るからそうなるんだよ」
正面に座りなおせば、屏風のぞきの眼からまた、涙が零れる。
畳を濡らすそれに、手拭を投げ寄越してやりながら、佐助は小さく溜息を吐いた。
「だって…今までこんな事…無かったんだもの…」
どうやら相当に、甘やかされてきたらしい。
何となく、感じてはいたことだけれど。
「どうしたら…」
「謝っちまいなよ」
今日何度目か分からぬ、溜息と一緒に、吐き出された言葉に、屏風のぞきが顔を上げる。
泣き濡れたそれに、思わず、苦笑を零しながら、言葉を続けた。
「とっとと謝っちまえば、済む話だろうが」
「…でも…」
屏風のぞきの瞳が、戸惑うように、揺れる。
守狐は多分、本気で怒ってはいないのだろうと、佐助は思う。
でなければ普段から、この意地っ張りを、ああも甘やかしたりしないはずだと。
「守狐殿ならきっと、それで許してくれるだろうさ」
「そう…かね…?」
不安げに、見上げてくるから、思わず、笑ってしまいそうになる。
普段なら絶対に、こんな真似はしないだろうに。
「分かったらとっとと行きなよ。…あたしだって寝たいんだ」
それでもまだ、戸惑っているようだったから。
強引に部屋から摘み出す。
暫く、逡巡していたようだけれど、やがて、気配は消えた。
「さて…どうしようかねぇ…」
隣の間へと続く、襖を眺めれば、こめかみが痛い。
結界は、屏風のぞきを追い出した時に解いた。
それでも、戻ってこないということは、相当に機嫌を傾けているということで。
どうやって機嫌を取ろうかと考えると、佐助は眩暈を感じずには居られなかった―。
「守狐も意地が悪いわ」
おたえの言葉に、守狐はただ笑う。
真白い尾が、ゆらり、揺れた。
「訳が分からないことで拗ねられちゃあ、私だって機嫌の一つぐらい、傾けたくもなるさ」
「本当は怒っちゃあいないくせに」
呆れたように言われ、漏らす苦笑。
差し出された饅頭を頬張りながら、さてどうしようかと、思考を巡らせる。
何故あんなに拗ねていたのか、結局分からず仕舞いだったけれど。
「あれは時々、我侭が過ぎるところがあるからね」
丁度良いかと、思ったのだが。
思い出すのは、ひどく戸惑うような、不安げな表情を浮かべた、屏風のぞき。
「それにしたって、屏風のぞきが可哀想だわ。此処に引っ込んでちゃあ、謝る機会も無いじゃない」
「それもそうだねぇ…」
非難めいた視線を送られ、確かに、少しやりすぎたかもしれないと、思う。
明日辺り、戻ってみてやろうかと、思案する。
その時、ふと、部屋の外に気配を感じた。
「守狐…いるかい…?」
そっと、小さくかけられる声は、常からは想像出来ないほどに弱々しくて。
それ見たことかと、おたえから視線で責められた。
「いるよ」
言いながら、障子を開ければ、びくりと、怯えたように身を竦ませる屏風のぞき。
一瞬、自分を見上げた瞳は、不安に揺れていた。
「少し出てくる」
「はいはい」
おたえに声を掛ければ、戸惑うように見上げてくるから、視線だけで、外へと促す。
社の裏、いつもの己の定位置に腰を下ろせば、身を切るように詰めたい風が、頬を嬲った。
「―――っ」
相変わらず寒がりな憑喪神が、身を震わせるから。
苦笑交じりに変化をかけて、その自分と同じぐらいに、細い身体を抱き込んでやる。
びくりと、一瞬、身を強張らせた屏風のぞきは、それでも、何も言わずに守狐の、人のそれとなった腕の中に納まった。
「で?何か用かい?」
いつまでも、口を開こうとはしないから。
仕方なく、己から振ってやる。
「昼間…」
「うん?」
ぽつり、零された声は、ひどく小さくて。
聞き逃さないように、その口元、耳を寄せる。
「昼間は…悪かったよ…あたし、が…悪かっ…」
途切れ始めた声は、最後、上擦ってしまって。
見れば、白い頬を、涙が伝う。
守狐の着物に落ちたそれは、じわり、染みを作る。
すぐに、夜風に洗われるそれは、ひどく冷たい。
「はいはい分かったから…泣くんじゃあないよ」
苦笑交じりに、そっと、頭を撫でてやる。
ぎゅうと、きつく縋りつきながら、肩口に顔を埋めてくる屏風のぞき。
寒さのそれでなく、震える背を、守狐の手が、宥めるように何度も撫でた。
「もう我侭言わない?」
その背に、幼子を窘める様に優しく、声を掛ける。
こくこくと、何度も頷くのに、守狐の口の端、笑みが浮かぶ。
「恐かった…」
「何が…?」
未だ、震える声で零される言葉を、優しく、促してやる。
「守狐に…嫌われたかと…思ったら、すごく…恐かった」
珍しく、素直な言葉に、思わず、目を見開く。
守狐が、ひどく優しげな、笑みを零した。
「嫌うもんかね…誰よりお前が愛しいよ」
囁き、頬を寄せれば、一層きつく、しがみついて来るから。
一層きつく、抱きしめてやる。
「それで、何だってあんなに拗ねてたんだい?」
どうしても分からなかったそれを問いかければ、ようやっと、身体を離した屏風のぞきが、気恥ずかしそうにそっぽを向きながら、ぽつり、ぽつりと、語りだす。
「腹が立ったんだよ。…その…仁吉さんと昔の事なんかを、楽しそうに喋ってたって聞いて」
白い目元が、夜目にも朱く、染まっていて。
「あたしのところに…一番に逢いに来てくれない、から…」
「それは…私が悪かったねぇ」
笑う、守狐の瞳には、ひどく満足そうな色が、浮ぶ。
「昔の事なんか…あたしはどうやったって知れないじゃないか…」
悔しそうに零される言葉に、守狐の笑みが一層、深くなる。
真白い尾が、ひどく嬉しそうに、ゆらり、揺れた。
つまり、妬いていたのだ。
そう思うと、一層、腕の中の存在が愛おしくて。
「屏風のぞき」
顔を上げたその、すっかり冷えてしまった頬を、そっと、両の手で包み込む。
唇を重ねる直前、囁くのは今一番伝えたい言葉。
「誰よりお前が愛しいよ」
絡め取ったのは、寂しかったのだという、声にならない言葉。
逢えない時を埋めるように、交わす体温。
真冬の、冴えた月の光が、社の甍を洗っていた―。