かたりかたりと、戸板を叩く風の音が、響く。
外は寒いんだろうななんて、のんびりとした考えに、思考を無理やり逃がしたりして。
「………っ」
それでも、自分の今のこの状況が変わるわけが無いことを、屏風のぞきは何度目かの思考逃走の末、思い知った。
はらり、本の頁を捲る乾いた音が、響く。
その指先は常なら当たり前に、開かれた本の右の上端、いつもの定位置に収まるはずなのに。
ふうわり、右端に戻るはずの右手は、思い出したように、屏風のぞきの頭を撫でる。
時々、意識は完全に本の中に取り込まれるのか、仁吉は右手を屏風のぞきの頭の上に置いたままになることさえ、あった。
その度に、びくりと身体を強ばらせ、息を詰める己の身にもなって欲しい。
こんな状況になってから、かれこれ半刻は経っているように、思う。
最初は、不意に手を捉えられ、引き寄せられた。
その後、座した膝の上に、抱え上げるように抱き込まれる所までは、いつもの事だ。
常ならその後直ぐに、節操無しの手は、着物の合わせから忍び込んでくるのに。
「あだ……っ」
唐突に伸びてきた右手に、頭を押さえつけられ、仁吉の骨ばった肩口に、側頭部をぶつけてしまい、痛みに呻いた。
何をするんだと睨みつけようとして、そのままくしゃり、頭を撫でられ、驚きに固まっている間に、詰る機会を逸してしまった。
それきり、特に反応を見せない手に、これは己から仕掛けて来いと言うことなのかと、思ったのだけれど。
かたり、文机の上に置かれていた本に、手を伸ばした仁吉に、いよいよ訳が分からなくなってしまった。
初めは、揶揄っているのだと、思った。
その気にさせろと言うなら上等だと、思ったのに。
「………」
随分近い距離から見上げる横顔は、真剣な眼差しで文面を追っていたから。
この手代が本を読んでいる時に邪魔立てすると、ろくな目に合わない事を思い出し、伸ばしかけた指先を引っ込めた。
それからずっと、この様だ。
大の男が膝の上に抱え上げられた挙げ句、幼子みたいに頭を撫でられて固まる様は、端から見たらひどく滑稽だろう。
いい加減、気恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
けれど。
「………っ」
そんな屏風のぞきには一向構う気配を見せない手は、また、ふうわり、ひどく優しい仕草で、頭を撫でる。
常からかけ離れた仕草に、これは夢かとさえ、思う。
だとしたら何故、自分はこんな気色の悪い夢を見るんだと考えかけて、慌て思考を中断する。
目元が、熱い。
「に、仁吉さん」
身を包む体温に、近すぎる吐息。
ふうわり、頭を撫でるだけの右手を、うっかり心地よいと感じている自分に、気付いて一層、頬が熱くなるのが、わかった。
「……うん?」
邪魔立てするのは恐ろしいが、この異常な状況よりは、遥かにましだと思い切り、恐る恐る、声を掛ければ、返ってくるのは生返事。
まだ殴られる心配は無さそうだと、急いて言葉を、継ぐ。
「あんた熱でもあるのかい?」
「……は?」
ようやっと、こちらを向いた目は、怪訝そうな色を浮かべていた。
そうとしか考えられないと、屏風のぞきは思ったのに。
違うとなればやはりこれは新手の嫌がらせに違いない。
きっとこの後、恐ろしい目が待っているのだと、勝手に結論付けで青ざめる。
「あ、あたしが何したって言うんだいっ?」
今更真意に気付いたとしても、仁吉の腕に捕らえられた様なこの状況では、逃げることすら叶わない。
殆ど泣き出しそうになりながら叫べば、仁吉の眉間に、皺が寄る。
怖ろしい目で睨み付けられ、喉から引きつった声が、漏れた。
「何だいお前。また何か下らないことをやったのか」
「してないっ!あたしゃ何もしてないよっ!」
低い声音に問い質されて、必死に首を左右に打ち振れば、呆れたように溜め息を吐かれた後、ごん、と側頭部を仁吉の肩口にぶつける様に押し付けられた。
「だったら何なんだい」
そのまま、再び本の中に落とされた視線に、どうやら恐ろしい気配は無いらしいのは分かったけれど。
依然、抱え上げられたままの膝の上、変わらぬ状況に、一層、思考はこんぐらがってしまう。
「それはこっちの台詞だよ!あんた一体どういう了見でこんな…」
言いかけて、気恥ずかしさに口篭もる。
改めて思う迄もなく、この上なく気恥ずかしい。
屏風のぞきの言葉に、ようやっと察したのか、仁吉が思い出したように小さく、「あぁ…」と呟いた。
「若だんなに言われたんだよ。恋仲ならそれなりの扱いをしてやれって」
「………それか」
溜め息混じりに零された言葉は、すとんと、己の裡に納得を落とす。
呆れ半分、安堵半分。
思わず、溜め息が漏れた。
兎に角、己は怖ろしい目に遭うことは無いらしい。
「言われたからってまともに受けるか」
「当たり前だろう。若だんなが言うんだから」
続く、予想通り過ぎる言葉に、溜め息しか出ない。
己が身を、不憫に思ってくれたのかもしれないが、一太郎も何を吹き込んだんだと、内心、零す。
言えば本当に殴られかねないので言わないが。
「全く…いきなり慣れないことしてんじゃあないよ…」
「何で」
とっとと離せと、身を捩り掛けた時。
近すぎる距離から、のぞき込まれて。
ふうわり、今までで一番、優しい仕草で頭を撫でられ、忘れていた気恥ずかしさに、かっと、一息に首筋まで熱くなるのを、感じた。
「ふぅん」
「な、何だい…」
仁吉の眼の奥。
愉しげな色が浮かぶのを見つけ、身構える。
頭に置かれたままの手に、緩く首筋を撫でられ、小さく息を詰めた。
「そんなに可愛い反応を返されるんなら、まんざら悪くないねぇ」
ふうわり。
また、頭を撫でられる。
見下ろしてくる眼は、あまりにも優しい。
「――――っ!…い、言ってなよ馬鹿っ!」
頬が熱い耳が熱い身体が熱い。
揶揄する様に微笑うから、その憎らしい顔をひっぱたいてやろうと振り上げた手は、簡単に捕らえられて叶わない。
「んぅ…っ」
口付けられ、節操無しの舌に、詰る言葉は絡め取られて溶け消える。
着物の合わせから入り込んでくる、身に馴染んだ感覚。
「はじめか、ら…こうしろ、ってんだ」
「…じゃあお前は、全く嫌だったと?」
ふうわり。
伸びてきた指先が、思わせぶりに髪を梳く。
相変わらず人をくったように微笑う唇に、噛みつくように口付けながら。
本当に本当に、悔しい上に、認めたら最後気恥ずかしさに死ねるとも思うから、きっと気のせいだとは思うけれど。
ほんの少し、心地良く感じてしまった。
ましてや幸福な心地になったりした。
これは絶対に気のせいだと、屏風のぞきはいつになく熱い頬を持て余しながらその訳は見て見ぬ振りで押し通した。