季節は急に変化を見せて。
唐突に乾き、冷えた空気に、一太郎が風邪を拾わないはずも無く。
ようやっと床を払い、夜着に包まりながら縁側で日向ぼっこなぞが出来るようになったのが、つい先日のこと。
「若だんなぁ」
それでも、床を払ってしまえば、することの無い一太郎に、小さな小さな見舞いの品が届けられた。
「わぁ…金木犀かい?」
目を見開く一太郎の膝の上によじ登って。
一匹の鳴家がその小さな手に摘んできた、小さな花を差し出す。
秋の、澄んだ陽光の中、ふわりと、鼻腔を擽る香りが心地良い。
「嬉しいよ。ありがとう」
微笑して、その頭を撫でてやれば、きゅんいーと気持ちよさげな声が返って来る。
それを見た、他の鳴家たちが我も我もと駆け出して。
不意に、離れは静寂に包まれてしまった。
「あれま…。皆どこに行っちまったんだろう…?」
小首を傾げる一太郎に、屏風の中でだらしなく寝そべっていた屏風のぞきが、揶揄するように口角を吊り上げる。
「若だんな。下手に甘やかすとえらい目にあうよ」
「何がだい?」
含みを持った物言いに、一層深く小首を傾げた時。
「若だんなぁ!我も摘んで来ましたっ!」
その声に、振り返った途端。
「うわぁっ」
頭から、まるで雨の様に降り注いだのは金木犀。
勢い余った鳴家たちの手を離れたそれは、一太郎の髪に、肩に、膝に落ちる。
あっという間に金木犀に塗れてしまった一太郎に、背中から呆れたような声が響いた。
「まったく。小さいのは加減って物を知らないのかい」
屏風のぞきの言葉に、鳴家たちは不満げに頬を膨らませ。
けれど、続いて、不安げに見上げられ、一太郎は苦笑しながら、一匹一匹の頭を撫でてやる。
「皆でとって来てくれたのかい?ありがとう」
その言葉に、それ見たことかと、鳴家たちは勝ち誇ったように胸を逸らし。
屏風の中からは一層、呆れたような溜息が漏れた。
周囲の空気は、金木犀一色に染まり。
黄金色の秋の空気に、一太郎は嬉しそうに目を細めた。
その時、不意に廊下を渡る足音が響き。
我も我もと、一太郎の手の下に潜り込んでいた鳴家たちが、さっと姿を消した。
「若だんな、お薬を持ってきましたよ」
優しげな声に、振り仰げば松之助が立っていて。
午後の柔らかに澄んだ陽光の中に立つ義兄に、しらず、零れる笑み。
けれど、こんな時間に珍しいと小首を傾げれば、仁吉は手が離せないらしく、代わりの佐助は外出の最中。
それで松之助が頼まれたのだと、説明された。
何にしろ、一太郎にとって嬉しいことには変わりなく。
「さぁ、飲んで下さい」
そう言って、穏やかな微笑と共に差し出された白湯と包みも、松之助相手では拒むことも出来なくて。
情けなさそうに眉尻を下げながら、それでも一息に飲み干した義弟に、松之助は一層優しげな笑みを向けた。
口直しの金平糖を差し出す、その手がふと、止まる。
「兄さん…?」
どうしたのだろうと、小首を傾げる一太郎。
ふわり、涼やかな風が、二人の間を抜ける。
「あぁやっぱり。若だんなからだ」
「に、兄さん…っ?」
すいと、急に触れ合うほどに近く、顔を寄せられ、どくりと、心の臓が脈打つ。
知らず、胸が騒いだ。
「若だんな、良い匂いがしますね」
言いながら、まるで首筋に顔を埋めるようにしながら、くんと、香を嗅ぐ松之助に、そう言う事かと合点する。
風が吹くたび、金木犀が匂い立ち。
「外出をなさってたんですか?」
喋る度、吐息が耳朶を擽るようで。
一太郎の心の臓が、また、脈打つ。
松之助の指が、首筋を掠めるようにして、髪についたままの金木犀を一つ、摘んだ。
その、一瞬の体温に、また、胸が騒いで。
「金木犀がついてますよ」
そう言って、少し離れた体温が、名残惜しい。
けれど、そんなことには頓着しないのか、松之助はただ、心配げに眉根を寄せるばかり。
その指がまた、一太郎の髪に触れる。
「ほら、たくさん付いてる…」
髪に、肩に、膝に、落ちたままの金木犀は、一度気付いたら後から後から見つかるようで。
膝立ちになり花を探す松之助に、その胸に抱きこまれるような形になった一太郎は、思わず、声を出していた。
「兄さんっ」
「…はい?」
堪らず呼んだ名は、思いの他、声が大きくなり。
急に大声で名を呼ばれ、松之助がきょとんとした表情で、小首を傾げた。
けれど、己に向き合うように座りなおしたその顔は、すぐに曇り。
今度は一太郎が、小首を傾げる番となった。
「兄さん…?」
「顔が赤いですよ?…まさか熱が?」
誰の所為だと、思わず、眩暈にも似たものを感じ、目を閉じる。
途端、額にこつりと、何かが当たる感触がして。
すぐ側に感じる気配に、驚いて目を開ければ、一太郎の額に、己の額を押し付ける松之助の顔があって。
思わず、息を飲む。
「兄さ…」
「熱は…無いみたいですけどねぇ…」
額をあわせたまま、真剣に眉根を寄せる声は、ひどく心配そうで。
掛かる吐息に、近すぎる体温に、いい加減、一太郎も限界だった。
「あのねぇ…」
呟きながら、掴むのは額に置かれた、松之助の手。
「病み上がりなのに…外出をなさるからですよ」
やはり、頓着しないのか、掴まれた手を握り返して、部屋に戻るよう促してさえ、来る。
その目は咎めるような色を帯びて。
横になるようにと、布団を延べる松之助。
あくまでも兄として接してくるのに、一太郎から溜息が漏れた。
「こちらも我慢の限界なんだけれど…」
見上げれば、一瞬、松之助は驚いたように目を見開いて。
その瞳はすぐに、ひどく心配そうな色を浮かべた。
「やはり気分がよくないのですか?」
真意が全く、欠片も届いていない、続く言葉は無視して、大人しく床に就く。
また、額に置かれた手を、今度はしっかりと、掴む。
「若だんな?」
「うん。外出をしたから、調子が悪くなったんだろうね」
怪訝そうな声に、うんうんと頷いてみせる。
松之助が一層心配そうに、眉根を寄せるのが、空気で分かった。
「でも、寝てるのも退屈でね。…私はまた抜け出すかもしれない」
「駄目ですよ」
間髪入れずに返って来た言葉に、予想通りだと、一人頷いて。
ちらり、上目で見上げる義兄の顔。
その口の端、釣りあがるのは気付かれぬように。
「だから…」
ぐっと、掴んだままの手首を引き寄せる。
「うわ…っ?」
途端、よろめき、崩れ落ちてくるのを、器用に布団の内に引き込んで。
急な動きに、ふわりと、また、香る金木犀。
にこり、向けるのは笑顔。
「兄さんも一緒に寝て」
笑い告げられた言葉に、松之助は困ったように眉尻を下げたあと、「寝付くまでですよ?」と、諦めたように微笑した。
その顔は、やはり、兄の顔で。
「ありがとう」
笑顔で礼を言いながら、さてどうしてくれようかと、一太郎は思考を巡らせる。
二人の空気を、柔らかな金木犀の香りが、染めていた―。