「あれは…」

 自分より少し低い位置で、息を呑む声がする。
 固まるその視線の先には、夜目にも分かるほどに打ち据えられた妖の姿があった。
 引き裂かれ、泥に汚れた狩衣の所々に血が滲んで、痛々しい。

「お前たち、もう良いだろうっ!」

 皮衣のその一言で、妖の周りで尚も牙を剥こうとしていた者たちが、不承不承といった態で引いていく。

「一人の者にここまですること無いだろうに…」

 困惑したように眉根を寄せる皮衣が、倒れこむ妖に手を差し伸べようとするのを、片手で押さえ込む。

「皮衣様、こんな得体の知れぬ相手に触れてはなりません」
「白沢っ!」

 叱責と同意時に投げられたきつい視線を、さらりと流して、
 白沢はその爪先で、最早ぼろ切れ同然となってしまっている者を、突く。

「……っ」

 微かに呻いて身じろぐその妖の、狐火に晒された相貌は、白沢よりも幾分歳若い。
 散々に打ち据えられた所為か、その体から敵意を感じることも無い。
 周りを見れば、妖狐の中の誰一人怪我を負ったものもいないようだった。
 無抵抗で皆の怒りを受けたのか、反撃も出来ぬほどに弱いのか。

「…この狐火の群れに突っ込んでくるとは…若さゆえに血迷ったかねぇ…?」

 冷めた口調で呟く白沢に、皮衣が焦れた様に叫ぶ。

「白沢、兎に角手当てをしなけりゃあ。そいつを私の庵に運んでおくれ」
「なりませんよ。皮衣様の部屋に、こんな得体の知れないぼろ雑巾を運ぶわけには…」

 捨て置いていこうといいかねない口調。
 冷たい声音に、不意に皮衣がその形の良い唇を吊り上げた。

「ここは稲荷のお社だよ?そこを得体の知れぬものの血で汚しても良いのかえ?」
「………」
「白沢」

 名を呼ぶ声音に、焦れたような色が滲む。
 白沢の視線が、逸れた。
 結局、自分はこの人の言葉には逆らえない。
 それはもう千年以上も惹かれているからかと思い当たる度、重苦しい想いが胸に競りあがってくる。
 随分と長い間、付き合ってきて、いい加減嫌気が差してきた重苦しさ。

「…わかりました。ただし、運ぶのは皮衣の部屋じゃなくてあたしの部屋にして下さい」

 それでも、簡単に捨てられるものではないのは己が一番良く知っている。
 諦めた様に溜息を一つ吐いて、ようやっと、白沢は首を縦に振った。
 皮衣が、嬉しそうに破顔する。




「………」

 重い溜息が、一つ漏れたが、それは誰に受け止められることなく、部屋の空気に混じって消えた。
 あれから数日、何とか、犬神という名前だけは聞き出したものの、後は全くといって良いほど、喋らない。
 傷も、白沢手製の薬のおかげで、ほぼ全快しているのに。
 全快したのだから放り出そうとしても、皮衣が良い顔をしない。
 どうやら気まぐれに助けたこの妖に、情が湧いたらしい。

「お嬢さんも人が変わってるから…」

 そう呟いてまた一つ、溜息を吐く。

「犬神、お前一体いつまでその辛気臭い顔面下げてるつもりなんだい」

 そう呼びかけても、部屋の隅で一人ひざを抱える犬神には届かないようで、ピクリともしない。
 その漆黒の瞳はただ、虚空を見つめるばかりで何も映し出しはしない。
 何を言っても無表情で、名前は名乗ったのだから、こちらの言葉が分からないわけでは、ないようなのだけれど。
 聞けば狐日の群れにいきなりふらりと突っ込んできて。
 怒った妖狐に打ち据えられているときでさえ、虚無の表情を浮かべたまま、無抵抗だったという。
 食事も殆ど、摂らない。
 夜も眠れないのか眠らないのかで、その頬は傷が癒えたにも拘らずやつれたままだ。
 拾ってからというものずっとこの調子なので、皮衣も気が咎めて、放り出すにも放り出せないでいるのだ。

「犬神、お前が飯も食わない、夜も寝ないというのはそりゃあお前さんの勝手だがね。…あんたが四六時中起きてる所為でこっちまで気が立って眠れないんだよ」

 白沢ほどになれば、寝込みを襲われたとて対処はできる。
 が、相手が全く眠らないのであれば、また、別の話になってくる。
 常に、隣に起きている者の気配があるというのは、どうにも落ち着かない。

「助けてもらったと恩を感じるならね、せめて夜ぐらいあたしにゆっくりさせとくれ」

 そういうと、犬神は一瞬、その虚ろな瞳を白沢に投げて寄越したが、直ぐにまた、視線を元の虚空に戻してしまう。

「…全部あたしの独り言にする気かい…」

 溜息混じりにそう呟いた時だった。
 己以外の声が小さく、鼓膜を震わせたのは。

「…ない、ん……」
「え…?」

 反射的に聞き返すと、犬神の唇が再び小さく、動く。

「…寝ちゃあ、いけないん、だ………」

 また随分とやっかいな奴を拾ってしまった…。
 白沢は胸の裡でひっそりと、何度目か分からない溜息を吐いた。


「いいかい、眠れなくとも寝るんだよ。でないとあたしが参っちまうんだからね」

 自分でも、無茶なことを言っているとは、思う。
 それでも、犬神は昼間の言葉を気にしているのか、大人しく白沢が用意した布団に、横になった。
 気休め程度にしかならないだろうが、神経を宥める効用がある、香を炊いてやる。
 なんだかんだと、思うけれど。
 結局、白沢自身も、この犬神を放っては置けないのだ。
 横になってしまえば、やはり疲れが出るのか、それとも香が効いたのはか分からないが。
 程なくして、犬神は小さく、寝息を立て始めた。
 その姿に、少し安堵して、行灯を吹き消し、白沢も横になる。
 己の日常が徐々に、この犬神に侵食されていることに、白沢は敢えて気付かぬように目を閉じた―。


「―っぅあぁああぁっっ」

 突然響いた悲鳴に驚いて身を起こした途端、拳が飛んできた。
 狙い定めて打たれたそれではないので、易々と躱し、捕まえることが出来たものの。
 驚いたのには変わりない。

「なんだってんだいっ」
 
 怒声と共に睨み付け、思わず息を呑む。

「ああぁぁっ」

 悲痛な悲鳴を上げる犬神のその目は、白沢を見てはいなかった。
 見開いた両の目からは、ぼろぼろと涙が零れ、その息はひどく荒い。

「ぅあああっ」

 押さえらつけられた手を、尚も跳ね除けようと激しく震えながら。
 暴れるその体を、白沢はとっさに押し倒し、押さえ込む。

「犬神っ!しっかりしな、ここは現の世だよ」
「あ…ああぁぁ…」

 喉の奥から振り絞る様な、血を吐く様な、悲痛な声はやがて小さくなり、瞳も徐々に現のそれを映し出す。

「大丈夫だ…此処は大丈夫だよ」

 繰り返されるその言葉に、嗚咽が小さくなり、震えも収まってくるのがわかる。

「まも…っなかった…」

 うわ言を繰り返しながら、嗚咽はすすり泣きに、そして微かなしゃくりあげへと変わっていく。

「守れ…な…」

 やがて泣き疲れたのか、犬神は白沢の下で小さな寝息を立て始めた。

「守れなかった…?一体何が守れ無かったって言うんだい・・・」

 訳がわからぬまま一人取り残される形となった白沢は、この自分よりも歳若い妖の背負ったものに、思わずその形の良い眉根を寄せていた。


 夜明けの、まだ優しい日の光が部屋に差し込む。
 長い影を引いて、部屋の中の物を浮かび上がらせるその光に、思わず顔を顰めていると、隣で起き上がる気配がした。

「起きたのかい」

 その言葉に、まだ寝ているとばかり思っていたのか、犬神がびくりとその身を竦ませたのが、背中の気配で分かった。

「昨日は何か嫌な夢でも見たのかい?」

 身を起こし、真正面から顔を覗き込むと、犬神は一瞬怯えるような表情を見せた後、俯いてしまう。

「あれだけ人を夜中に叩き起こす様な騒ぎを起こしといてだんまりかい」

 少し怒気を含んだその言葉に、犬神はようやっと顔を上げ、口を開いた。

「夢じゃない…」

 返事が返ってくるとは思っていなかった白沢は、内心驚きながらも、けれどそれは、それは表情に出さず、器用に片眉だけ上げて先を促す。

「夢じゃない…?どう言う事だい」
「あたしは・・・」

 犬神はぽつりぽつりと、話し始めた。
 自分は大師様に産み出された、人を守るために生まれた者であること。
 その大師さま亡き後、ようやっと見つけた居場所のこと。
 何より大切な者のこと。
 そして、そのものを守りきれず、失ったこと。
 全てを失い、狐火に突っ込んでいったこと。
 夜毎眠る度、あの日の夢を、大切な人を失った夢を見ること。
 犬神が全てを話し終えるまで、白沢は黙って聞いていた。
 部屋に満ちる、重く、哀しい空気を遮って。
 ゆっくりと、口を開く。
 
「お前が未だに自分を責めるもの分かるがね。お前はそんな弱い者でもないだろう。
あの空海が産み出したんだ。お前には強い力が宿ってる。それは自分でも分かるだろう?」

 その言葉に、犬神が小さく、頷く。

「だったらその力を、このまま殺していくのいかい。過去に囚われるなとは言わないよ。
だけどね、変に拘るのはおよし」 

 そういって犬神の目を覗き込む白沢の眼は、強い光を、宿していた。

「お前は必ず、大切な者を守りぬく力を持っているんだ。
未だ見ぬ先のことまで、自分の手で潰す必要は無いんだよ」

 そう言ってから、不意に白沢はにい、とその口角を吊り上げる。

「この白沢が請け負うんだ。間違いないよ」

 その言葉に、犬神はただ、驚いた様に、眼を見開いているだけだった。
 けれど、白沢は気付いていた。
 その瞳の奥底、微かに、強い光が宿り始めていることに―。


 それから数日、やはり毎晩のように犬神は悲鳴を上げ、飛び起きたけれど。
 夜毎、白沢に宥められているうちに。
 それは一日置きになり、三日置き、10日置き、数ヶ月と、徐々に減って行き。
 悲鳴を上げていたのも、ただ飛び起きるだけ、涙するだけとなり、やがて、穏やかに眠れる日々が、続くようになった。
 それと共に、白沢は己の裡で、存在を増していく犬神に、気付いていた。
 殆ど、同時に。
 あれ程までに想い、悩ませていたはずの、皮衣への苦しさが、薄れていたことにも。

―気持ちが安らいでるのは、あたしのほうなのかもねぇ…―

 そんなことを考えながら、庭を二人歩いていたときだった。

「犬神さん」
「やあ、こんにちは」

 弘法大師の産み出した妖ならと、妖狐たちも、最近は犬神に対して警戒を解いたらしく。
 親しげに寄って来るようになった。
 犬神自身、元来の性格が明るく、人を惹きつける者であったようで。
 直ぐに回りに、賑やかな輪が出来る。
 そんな光景を少し離れて、引いて眺めていたときだった。
 不意に後ろから声をかけられたのは。

「白沢」
「皮衣様…」

 皮衣は嬉しそうに目を細め、屈託の無い笑顔を見せる犬神を見遣る。

「お前のお陰で、随分元気になったようだね」
「はぁ…」

 気の抜けた返事を返しながら、白沢も、皮衣と同じ方を、見遣った。

「お前も、あの子が来てから、随分優しい顔をするようになったじゃあないか」

 その言葉に、驚いたように目を見開いて皮衣を見ると、自分より少し低い位置から見上げるようにして。
 くすりと小さく、微笑まれた。
 唐突に、一陣の風が吹いて二人の頬を撫でていく。

「あれ、荼枳尼天様がお呼びだ…」

 零すように呟いて。
 皮衣は、もう一度白沢に意味ありげに微笑むと、さっさと踵を返してしまった。
 残された白沢は、その後姿を見送りながら、今度は声に出して、呟く。

「やっぱり、気持ちが安らいでいるのはあたしの方なのかねぇ…」

 背中で大きく、犬神の笑い声が響く。
 その明るい声が、自分を呼ぶ。
 振り返り答える白沢の口元には、柔らかな笑みが、浮かんでいた―。