紫煙がゆるく立ち上る。
 湿気を含んだ空気に、それは天井まで昇ることなく、広がって消えた。
 双眸を眇め、うつ伏せのままゆっくりと紫煙を吐き出す、煙管を持つその横顔を、見るともなしに見つめる。
 整ったその横顔は、情事の後の気怠さを未だ引きずっていて、どこか危うい。
 己を見つめる視線に気付いたのか、つっとその形の良い眉が細められた。
「何だい?若だんなの前じゃなきゃ良いだろう…?」
 不満気に眉を顰める言葉とは裏腹に、その瞳には僅かに怯えの色が滲む。
「あたしゃ何も言ってないよ」
 その態度に、思わずもれる苦笑。
 揶揄する様に口を開く。
「しかしね、そのうち体に穴が開いても知らないよ」
「うるさいね。そんなヘマしないよ。イキがったガキじゃああるまいし」
 言いながら、紫煙を吐き出す横顔は、相変わらず不機嫌そうで。
 忍び笑いを堪えながら、ふと、思いついた疑問を口にする。
「そういやぁお前、初めてじゃあなかったろ」
 自分でも唐突な言葉だったと思う。
 案の定、屏風のぞきは面白いくらいに咽返った。
「―っ?…な…っ何だいいきなり…っ」
 紫煙が目に沁みたのか、涙目になりながら激しく咳き込む。
 落としかけた煙管を、自分の布団に穴を開けられてはかなわないと、取り上げる。
 代わりに咥えると、その苦味ある煙を吸い込む。
 久方ぶりの味は、肺深くまで染み入った。
「アンタ煙草なんて飲まないだろう。返しておくれな」
 取り返そうと手を伸ばす屏風のぞきの顔に、ふっと紫煙を吹きかけると、ひどく嫌そうな顔をして、煙を払われる。
 手に遮られたそれは、不自然な形を描いて、直ぐに消えた。
「で?相手は?」
 初めから吸い切るつもりもなかったので、さっさと返してやりながら、問いかける。
 話を流そうとしていたのか、屏風のぞきは煙管を咥えることで、器用に視線を逸らす。
 その態度が、引っかかった。
「何を今更…。アンタそういうの気にする性質なのかい?」
 皮肉気に笑うその顔が、微かに強張っている。
 そんな反応をするから、聞きたくなるんだと、思わず口角が上がる。
「随分聞かれたくないようだねぇ?」
 顔を覗きこむようにして、笑う。
 性の悪い笑みを浮かべているんだろうなと、自分でも思う。
 屏風のぞきの顔に、目に見えて動揺が走る。
 相変わらず、嘘の下手な奴だと、内心で呆れた。
 屏風のぞきは、暫く逡巡するかのように苛々と煙管の吸い口を噛む。
 かちかちと、金属と歯がぶつかる音が、微かに響く。
 ちらりと、伺うように視線を寄越したので、にやりと笑ってやると、やがて、諦めたように溜息と共に紫煙を吐き出し、口を開いた。
「言っても殴らないかい?」
 予想外の言葉に、思わず目を見開く。
 けれど屏風のぞきの目は警戒の色ばかり濃く、どうやら本気で言っているらしいと分かり、仁吉は溜息を一つ付いて承諾した。
「本当に…?」
「本当に」
 疑わし気に目を眇める屏風のぞきに、二度目の溜息を噛み殺して頷く。
 それでもやはり信じられなかったのか、心持距離を置いて、屏風のぞきはようやっと、意を決したように言葉を吐いた。
「…伊三郎旦那だよ」
「…は…?」
 一瞬、意味が分からなかった。
 視線を逸らしながら一息に告げられた名前は、確かにその名前は、自分には馴染みがありすぎる名前で。
 しかしどうしてそれが、今この場面で出てくるか分からない。
「伊三郎旦那が…相手だよ」
 気まずげに付け足す屏風のぞきの言葉が、ゆっくりと頭に入ってくる。
「つまり…?皮衣様と言う方がありながらお前に現を抜かしてたって…」
「だから違うってっ!」
 皆まで言う前に、引きつった声で否定する屏風のぞき。
「どう違うんだい?え?」
 己の顔は、今きっと壮絶なまでに恐ろしい形相をしているだろうなと、思う。
 けれど、それをかまう余裕なんてない。
 屏風のぞきが、慌てて、弁解するように、己の過去を語り始めた。


 遡る時は今よりほんの少し前。
 まだ一太郎も生まれていないような頃。
 一太郎の母おたえが、産まれて間もない頃だった。
 その頃はまだ今の離れは無くて、屏風のぞきの本体である屏風は、伊三郎の居間に置かれていた。
 そして当時まだ新米の付喪神だった屏風のぞきは、やはり湿気に弱く、梅雨になれば弱りきっていた。
「……屏風のぞき」
 暗闇から、不意に掛けられる声。
 屏風のぞきは重たい体を引きずるように、本体である屏風から這い出し、胡乱気に闇を見つめる。
 声の先から迸る、己よりも遙かに強い妖の気配。
 そっと、傍らで眠る伊三郎を起こさぬ様に、部屋を抜ける。
 長雨が続き、部屋はどんよりと湿気て、体が思うように動かない。
「遅かったじゃないか」
 それでも、精一杯の虚勢で、相手を睨みつける。
「相変わらず冷たいな」
 喉の奥で、押し殺したような笑いが、闇に覆われた部屋に響く。
 思わず眉間に、皺が寄った。
 厭らしい笑いを浮かべる顔から視線を逸らし、何故こんな奴に頼らねばならぬのかと、己の身を呪う。
「…っ」
 不意に腰を引き寄せられ、顎を捉えられる。
 そのまま深く口付けられ、思わず堅く瞳を閉じた。
 歯列をなぞられ、強引に舌を絡めとられる。
 ぞっと背筋に走ったのは、悪寒か、それとも相手から送り込まれた精気の所為か。
「ふ…っ」
 散々口腔内を蹂躙され、ようやっと開放された。
 尚も着物の袷から入り込んでくる手を、思い切り跳ね除ける。
 睨み付けると、また、降って来る下卑た笑い。
「アンタにはもう用は無いよ。帰っとくれ」
 吐き捨てるように言い捨て、踵を返す。
 こんな奴を、いつまでもこの店の屋根の下に置いておきたくはない。
 いつもなら相手もここで、帰る筈だった。
 自分のような新米の付喪神なんかに、そこまで執着はしていないだろうから。
「あんまりいい気になるなよ。たかが古屏風が」
 剣呑な色を帯びた声に、振り返るのと、体が畳に叩きつけられたのとは、ほぼ同時だった。
「―ぐっ」
 強い衝撃に、息が詰まる。
 骨と言うより、内臓が軋みを上げ、鈍い痛みが走る。
 首筋に伸びてきた手が、気道を塞ぐ。
 苦しさに、顔が歪む。
 片手一本手押さえつけてくる手を、どうにか外そうと足掻くが、力の差は何より己が一番良く知っていた。
「大人しくしてりゃあ殺しはしないさ」
 見下した笑いに、屈辱に唇を噛み締める。
 抵抗するのも馬鹿らしくて、諦観の念で、体から力を抜く。
 満足げに笑うのが、気配で分かった。
 首筋にかかる吐息に、今度こそはっきりと、怖気が走る。
「―っ」
 きつく目を閉じたその時だった。
 不意に襖が開かれ、行灯の光が差し込む。
 体の上に圧し掛かっていた妖が、さっとその身を影に溶け込ませた。
「屏風のぞき。こんな夜中に何やってんだい」
 逆光になってその表情は分からないが、訝しげなその声に、助かったとほっと安堵する。
 さっと立ち上がり、僅かに乱れた着物を直すと、その背の向こうに回りこむ。
 襖を閉めながら、伊三郎は不意に鋭い眼差しを、影の向こうの気配に投げた。
「人の部屋の隣で下種なことすんじゃないよ。此処を誰の家だと思ってるんだい」
 その言葉に、己が今居る家の主の妻の存在を思い出したのか、逃げるように去っていったのが気配で分かる。
「あ…気付いてたのかい」
「当たり前だよ」
 答える声も、表情も硬い。
 こうなれば、居心地が悪くなるのは屏風のぞきの方だ。
 咄嗟に屏風の中に逃げ込もうとするのを、「お待ち」の一言でとめられる。
「な…何だい…?」
 恐る恐る振り返れば、座れと目線で示される。
 自分の部屋の隣で、あんなことを日常的にやられては、誰とていい気はしないだろう。
 ましてやお堅い伊三郎は武士の出た。
 気に障ったのは間違いないと、屏風のぞきは何を言われるのかと、怯えながら、それでも平静を装い、伊三郎の布団の前に腰を下ろす。
「あれはお前の好いた相手なのか?」
 硬い声音で訪ねられた言葉の意外さに、屏風のぞきは思わず、目を見開く。
 一拍遅れて、その言葉の意味を解して、つい、笑ってしまった。
「そんな訳無いじゃないか。あんな奴大嫌いさね」
 けらけらと笑って言うと、更に伊三郎の表情が強張り、屏風のぞきは反射的の笑いを引っ込める。
 伊三郎の真意が分からず、内心、首を傾げた。
 どうやら己の部屋の隣で行われていたことに対して、怒っているのではないようなのだが。
 なら一体何故怒っているのか…。
「好いても無い相手と、毎晩毎晩あんなことを…?」
「アンタに関係ないだろう」
 一番触れられたくないところに唐突に触れられ、反射的に、跳ね除けてしまう。
「関係ないだって…?あんな目に遇っておいて…?」
 硬さを増した声音に、しまったと思った時にはもう遅かった。
 肩に強い衝撃が走り、視界が反転する。
 翳る視界に、顔を上げれば、怖い顔で伊三郎が己を見下ろしていた。
「旦那…?」
 訳が分からず、目線で問いかけるけれど、返ってくる声は無い。
 肩口を押さえつけてくる手に込められた力の強さに、眉根を寄せる。
「―っ?」
 強引に、まるで噛み付くように荒々しく唇を重ねられ、口腔内を蹂躙される。
 突然のそれに、思わず、目を見開く。
「だ…旦那…っ?」
 引きつった声は、己でも情けなくなるようなもので。
 必死に押さえつけてくる手を退けようとするけれど、関節を押さえられていてそれも敵わない。
「うるさいよ」
 冷たいその声に思わず、全ての動きを止める。
 おそるそる顔を上げると、自分を見下ろす伊三郎の表情は今までに見たことが無いくらい冷たくて。
「誰にでもさせてたんだろう?…何を今更」
 信じられないようなその言葉に、ただ冷徹な光しか浮かべぬその目に、屏風のぞきの背に、恐怖と言う感情が走りぬけた―。
 
「―っい…っあぁ…っ」
 体を引き裂く激痛に、目を見開く。
 頬を伝う濡れた感触に、己が泣いているのが分かる。
 慣らしても、何の潤いさえもたらしていない所にいきなり伊三郎自身を突き立てられ、与えられるのは苦痛と恐怖。
 初めて味わう、その痛みに、恐怖に、畳に立てた爪ががりがりと音を立てる。
 内臓がせり上がる様な圧迫感と激しい異物感に、肺が空気を求め、軋む。
 滲む汗が、背筋を這う。
 鼻腔を付く錆びた鉄の臭いに、己の秘所が裂けたのが分かった。
「ひ…っぐっ…ぅ」
 その血のぬめりを借りて、伊三郎が更に、最奥まで圧し入って来る。
 唇から漏れるのは、苦悶の嗚咽。
 背後で伊三郎が、苦しげに息を吐く気配がした。
「力を…抜け」
 微かに血で濡れたとは言え、それは直ぐに乾く。
 恐らくは自身が引き攣り、痛みがあるのだろう。
 けれど、今の屏風のぞきにはそんなことが思うように出来る余裕など、あるわけが無い。
「痛…ぅっ」
 痛みと苦しさに、体が震える。
 貫かれる恐怖に、目の前が暗くなった。
「屏風のぞき…っ?」
 驚いたように自分の名を呼ぶ伊三郎の声が、屏風のぞきの最後の意識の中に、遠く響いた。
 
 瞼を刺す光の眩しさに、目を覚ます。
 差し込む光の強さから、太陽が随分高い位置まで昇っていることを知る。
 ぼんやりと眺めるのは見慣れた部屋。
 いつもと寸歩違わぬそれに、昨夜のことは全部悪い夢だったのかと思う。
「―っ」
 けれど、己が目覚めたのが、いつもの屏風の中ではなく、伊三郎の布団の中であることや、その直ぐ横の畳に刻まれた苦悶の爪あとに、それが夢でないのを知る。
 身を起こそうとすれば走るあらぬところの痛みに、屏風のぞきは己の顔から血の気が引いていくのが分かった。
 どうしようかと、焦る思考をどうにか纏めようと足掻いていると、不意に、耳にこちらへ近づいてくる足音が響く。
 障子に映る影に、屏風のぞきは、昨夜の冷たい目を思い出し、思わず布団の中でその身を硬くした。
「屏風のぞき?起きてるかい?」
 声と共に入ってきた伊三郎を、ただただ怯えの色が滲んだ目で、見上げる。
 いつもなら意識せずとも口をついてくる軽口も、今日は出てこない。
「…ほら」
 けれど、白湯を差し出してくるその声も、目も、いつもと変わらぬ伊三郎のそれで。
 それがいよいよ、屏風のぞきを混乱させる。
 どうしようかと迷ったが、手が引っ込められる気配も無いので、恐る恐る身を起こす。
「―痛っ」
 途端走った痛みに、思わず顔をしかめ、布団の上にくず折れる。
「無理をするな」
 それを見た伊三郎が、慌てて白湯を置いて、布団の中に押し戻してきた。
 その、肩に触れた手に、反射的にびくりと、体が震える。
「…すまない」
「あ…」
 すまなそうに眉根を寄せ、手を離す伊三郎に、思わず抱く、罪悪感。
 二人の上に降る、気まずい沈黙に、屏風のぞきは布団の中で、どうすればいいか懸命に思考を巡らせる。
 けれど、先に沈黙を破ったのは、伊三郎のほうだった。
「昨日は悪かった。…お前が誰とでもしていたかと思うと…ついかっとなって…自分でも何故あのよな事をしたのか…」
「そんな…っ」
 その言葉に、屏風のぞきは反射的に身を起こしかけ、再び走った激痛に、どさりと布団の上に倒れこむ。
「だから無理をするなと…」
「誰とでもなんかしてないよっ」
 伊三郎の言葉を遮り、早口に言う。
「あ…あんなことまでしたのは…初めてだったんだよっ」
 背を向け、気恥ずかしくなり、最後のほうは半ば自棄になって叫ぶ。
「初めて…だったのか…?だからあんな…」  
 呆然と、驚いたように呟かれる言葉に、かっと頬が熱くなる。
「うるさいよっ…人がどれだけ…」
 思わず振り向いて、詰る言葉が、宙に浮く。
 深々と頭を下げる伊三郎の姿が、そこにあったから。
「悪かったっ。あんな真似をしてしまって…」
「い、いいよもうっ。そんな女じゃあるまいし…」
 仮にも長崎屋と言う大店の旦那だ。
 そんな人間に、頭を下げさせるわけには行かなかった。
「けれどでは何故あんな…」
「力を貰ってたんだよ…あたしゃ元が紙だろう?今みたいな時期は体が弱っちまって…」
 言いながら、己が情けなくなってくる。
 どうしてこの身はこんなにもひ弱なのか。
「そうだったのか…」
 呟き、伊三郎は暫く考え込むように顔を伏せた。
 開け放たれた障子の向こう、幾日かぶりに見せた晴れ間に、庭に出来た大きな水溜りが、その日を白く反射させる。
 むっと湿った梅雨の風が、居間にも流れ込んできた。
「私では…お前の力になることは出来ないだろうか…?」
「…は?」
 唐突な言葉に、反射的に漏れたのは間の抜けた声。
「……」
 あまりにも突拍子の無い提案に、一瞬、言葉が出ない。
 あの大妖、皮衣の夫なら、その輪廻を繰り返した身は、確かに人のそれであっても、その力は並よりも強いだろう。
「駄目だろうか?」
 不安げに眉尻を下げる伊三郎に、そう言えば、昨日の妖に力を分けてもらったときよりも、己の身に、流れる気が強くなっていることに気付く。
「できないことは…無いみたいだけど…」
 呆然と呟くと、伊三郎がぱっと破顔した。
「なら、そうすれば良い」
 是非そうしろと募る伊三郎に気圧される様に、屏風のぞきは一つ、その細い首を縦に振った―。

 かんっと、火鉢に灰を落とす小気味良い音が、寝間に響く。
「と言う訳さね。伊三郎旦那は仲の良いあたしに同情して気を分けてくれてただけであって、あたしに色恋の情なんてこれっぽちも抱いてなかったよ」
 「やったのは後にも先にもそれっきりさね」と付け足す屏風のぞきに、仁吉は胡乱気に目を眇める。
「―っアンタも知ってるだろうっ?あの二人の間に入れる者なんて居やしないよっ」
 その言葉に、仁吉は不承不承、頷かざる得ない。
 皮衣の目が、いつも誰を見つめていたかなんて、己が一番良く知っているし、その目を受け止める伊三郎もまた、皮衣しか、映してはいなかった。
 そう、千年もの間ずっと。
「で?お前はどうなんだい」
「へ?」
 唐突に水を向けられ、屏風のぞきが面食らったように間の抜けた声を出す。
 仁吉は意地悪く口角を吊り上げながら、揶揄するようにその顔を覗きこむ。
「伊三郎さんに気はあったのかい?」
「そっ…そんなわけ無いだろうっ?伊三郎旦那は若だんなと同じぐらい、良くしてくれたけど、それだけさねっ」   
「ふぅん」
 含みを持った相槌に、屏風のぞきは思わずといった風に、溜息を付きながら言葉を漏らした。
「自分が千年も片恋してたからって、誰もがそいうだと思わないでおくれな」
「ほぅ…言うじゃないか。…それなりの覚悟は出来てるんだろうねぇ」
 一等、凄みのある笑顔を用意して、傍らでうつ伏せになっていた体をくるりと反転させて圧し掛かる。
 屏風のぞきの、しまったと言う風に見開かれた瞳の奥底、微かに滲む怯えの色を読み取って、仁吉はその形のいい唇に、心底楽しげな笑みを乗せた―。