「なぁおたえ、なぁ」
何度目か分からぬ呼びかけに、おたえはうんざりと眉を顰めた。
その声は、己にだけ届くもので。
「なによ」
小声で、足元の影に、呼びかければ、気配が示す先にあるのは美味そうな大福餅。
ふんわりと上る湯気が、甘い匂いを、運んでくる。
往来を行く何人かが足を止め、また何人かが、買い上げていくそれは、やはり、美味いのだろう。
またか、と、溜息が零れた。
つい先程も、甘酒を強請られ、買ったばかりだ。
「だめ」
小さく、呟いて行き過ぎようとすれば、着物の裾を、くいと引かれて、足が突っ張る。
何も無い平坦な道で、僅か、前につんのめる。
思わず、足元の影を睨み付けた。
「お嬢さん?」
後で女中が、怪訝そうに小首を傾げ。
慌てて、何でもないと、笑みを向ける。
三味線の稽古の帰り、お香奈には先に帰ってもらって良かったと、内心、溜息を吐く。
誤魔化す様に、首に巻いた襟巻きを、巻き直してみたりして。
「なぁ」
尚も、足元から響く声。
「なぁ、甘いものはあれが好きなんだよ」
誰が、とは聞かない。
聞かなくても、分かってしまう。
だったら、自分で買いにいけば良いのにと、言いたかったけれど。
己の守りを母から言い付かっている身では、それも中々出来ぬことも、おたえは良く知っていた。
諦めたように、溜息を一つ、吐いて。
その白い息が、溶け消える前に、湯気の向こう、忙しそうな店主に、声を掛ける。
「すみません、この大福餅を…」
後で女中が、驚いたように目を見開くのが、気配で分かる。
当たり前だ。
買い求めたそれは、娘の自分が一人で食べるにはあまりにも量が多い。
どう言い繕うと、考えると頭が痛かった。
「ありがとうよ」
足元からの、嬉しそうな声に、おたえはそれでも、小さく口元に笑みを結んだ。
「へぇ、中々に美味いじゃあないか」
「だろう?」
嬉しそうな声に、応える声も、ひどく嬉しそうで。
きゅいきゅいと、寄り集まってくる鳴家や狐たちに大福を分けてやりながら、おたえはそっと、部屋の隅の二人を、見遣る。
土産の団子を頬張る、屏風のぞきを見詰める守狐の目は、ひどく優しい色を帯びて。
己を見る、守狐の目も、ひどく優しいけれど。
それとは違う色が、その奥底、宿っているのを、おたえは気づいていた。
「甘酒、いるかい?」
「ん」
何気なく交わされる会話はひどく他愛も無い言葉だけれど。
そこには、互いを想う深さが、滲み出ていて。
「美味いね」
「そうかい」
嬉しそうに微笑う屏風のぞきに、応える声は、何気ない風を装って入るけれど。
その、真白い尾が、ひどく嬉しそうに、揺れているのを見つけ、おたえは小さく、笑みを零した。
「仲が良いのね」
声を掛ければ、屏風のぞきが小さく咽て。
その背を、何気なくさすってやりながら、守狐が、口角を吊り上げて、笑う。
「そうかい?」
「えぇ。私も欲しいわ。…そんな友が」
当人達は、二人の仲は、誰にも、知れていないと思っているようだから。
おたえも、気付かぬ振りを、してやってみる。
どちらも、おたえにとって、ひどく大切な存在だから。
二人が望む形に、なれば良いと想う。
障子の格子に切り取られた、緩やかに温かい日差しが、部屋全体を、照らし出す。
寒いのか、屏風のぞきが、その市松模様の膝に、守狐を抱え上げて。
白く細い指先が、真白い耳の根元を、掻いてやる。
金色の目が、心地良さげに、細められた。
そこに在るのは、ひどく幸福そうな、空気。
おたえは決してそれが、嫌いではなかった。
そっと、買ってきた甘酒を、啜る。
ふんわりと甘く、温かいそれは、心を和ませて。
隣の狐が零した冗談に、声を立てて、笑う。
ふと、守狐と、目が合った。
何気なく笑えば、ひどく優しげな笑みが、返ってきて。
そこに在るのは、ひどく幸福な、空気。
いつまでもそれが続けは良いと、おたえは思った―。