晩夏の涼やかな風が、頬を撫でていくのが心地良い。
 背中で、うつらうつらと、舟を漕ぎ始めた犬神に、小さく笑みを零して。
 起こさぬようにそっと、本の頁を捲る。
 開け放った蔀戸の向こう、抜けるように青い空はどこか、秋めいていた。
 もう、随分、大人しくなった蝉の声に混じる、微かな気配。
 背中の犬神が、不意に身を起こしたのにつられるように、顔を上げる。
 簀子の向こう、高欄越しに顔を覗かせたのは、良く見知った者だった。
 真白い狐の尾が、ゆらり、揺れる。
 その、半分を人の身に化けた手に持たれている本は、白沢のもの。
 返しにきたのだと、掲げて見せる守狐に、白沢は上がるよう勧めた。
 
「ついでに薬も欲しいのだが…」

 苦笑交じりの言葉に、それがいつものことになりかけている事実に気付き、白沢からも、苦笑が漏れた。
 また、皮衣の幼い孫が、熱でも出したのだろう。

「用意しましょう。…熱ですか?嘔気は?」

 頷きながら、視線を犬神にやれば、未だ眠気が残るのか、少しぼんやりとした表情をしていて、思わず、内心で苦笑する。
 ゆっくりと、繰り返される瞬きが、随分と重いように見えるのは、気のせいではないだろう。
 守狐なら、寝ていても気にすることはないだろうにと、また、内心で苦笑を零す。

「高い熱が続いてるらしくて…それから湿疹も出てるとか…」
「それは大変だ…」

 大方の当たりをつけながら、あれやこれやと、守狐に持たせていく。
 足りない分は調合しなければならないだろう。
 包みを開けた途端、辺りに広がる独特の臭気に、傍らで犬神が小さく、咽た。

「辛いなら出てていいよ」
「…ん…」

 小声で耳元に囁き落とせば、こくんと小さく頷いて。
 守狐に軽く会釈を返して、犬神はまだ眠気の残る足取りで、簀子を渡って行った。
 その、いつもより少し頼りない足取りに、白沢は一人、苦笑を漏らした。




「これだけあれば足りるでしょう」
「いつもすみませんねぇ」

 苦笑交じりに礼を言う守狐を送り出して。
 さて、と、白沢は辺りを見回した。

「犬神は何処へ行ったかねぇ…」

 呟き、思案しても思い当たるところなど、ない。
 幼子でもあるまいし、待っていれば戻ってくるだろうと、白沢は再び、読みかけの本の前に、腰を下ろした。
 それでも。
 常に傍にあるはずの者が、いないというのはどうも落ち着かなくて。
 居場所が分からないというのが、白沢の意識の片隅を、占領し続けた。
 
「……なんて様だいまったく…」

 それほどまでに、犬神の存在は自分の中で大きくなっていたのかと、驚くより先に、己自身に呆れてしまう。
 なにより、それを不快と思っていないのだから、笑うしかない。

「探すかねぇ…」

 誰にともなく、呟いて。
 読みかけの本を閉じ、立ち上がる。
 ゆっくりと犬神の気配を辿りながら、部屋々々を覗いてみるが、その影は見つけられなくて。
 一体何処まで行ったんだと、小首を傾げた先。
 普段、滅多に誰も来ないような、殆ど行き詰まりの片隅。
 陽溜まりの中、簀子の上で丸まる、探し人の影を見つけ、白沢の口元に、知らず、笑みが浮かんだ。
 傍らに膝を突いても、起きる気配は一向に、無い。
 規則正しい寝息を漏らす横顔は、ひどく心地良さげで。
 そっと、起こさぬ程度に、耳の根元を掻いてやれば、擦り寄るような仕草を見せるのが、愛おしい。
 一瞬、起こすのは、忍びないかと思ってしまうけれど、真逆このまま此処で寝かせておく訳にもいかない。

「犬神、起きな。…犬神」
「…んぅ…」

 軽く、頬を叩けば、逃れるように呻いて、一層、身を縮こめる犬神。
 眉根を寄せる、ぐずるようなその様に、漏れそうになる笑いを堪えながら、少し強めに、肩を揺する。

「こら、寝るんなら部屋で寝な。…何だってこんなとこで寝てるんだい」

 確かに、昼下がりの、秋めいたゆるい日差しは心地良く、此処は風通しも良い。
 眠くなるのも分からなくはないがと、小首を傾げた先、犬神の瞼が、ゆっくりと開かれた。

「白、沢…?」

 寝起き特有の、掠れた声で名を呼ばれ、漏らすのは苦笑。
 軽く、瞼に口付けを落としても、まだ焦点の定まらぬ、ぼんやりとした瞳は、不思議そうに何度か瞬いただけだった。

「寝たいなら部屋にしな。…身体が痛くなるよ」
 
 苦笑交じりに言えば、こくんと一つ、頷いて。
 凝り固まった関節が軋むのか、微かに、眉根を寄せながら、犬神が身を起こす。

「そんなに眠いんなら、部屋で寝てりゃあ良かったじゃあないか」

 寝乱れた髪をゆるく梳いてやりながら言えば、まだ眠り足りないのか、ぼんやりとした表情のまま、ぽつり、犬神が零した。

「他人がいたら、気が散ってよく眠れないんだよ…」

 呟かれた言葉に、白沢は大きく、目を見開く。
 ほてほてと先に歩き出した犬神の後を歩きながら、堪えきれぬ笑みに、口角が釣りあがるのを押さえきれない。
 
「それに薬の匂いだって…白沢?」

 一人、笑みを零す自分に気付いたのか、怪訝そうに振り仰いでくる犬神に、なんでもないと首を振る。
 小首を傾げながら、歩き出すその手を、軽く引いて、立ち止まらせる。
 向けるのは、微笑。
 上機嫌の笑い顔になっているのが、自分でも分かった。
 
「あたしも一緒に寝ても、良いかい?」
 
 問いかければ、訳が分からないというように、眉根を寄せながら、それでも、犬神は頷く。
 
「何だってそんなこと…。いつも一緒に寝てるじゃあないか」

 そっちからくっついてくるくせにと、一層怪訝そうに眉根を寄せる犬神には、応えずに。
 絡ませた手指はそのままに、白沢は歩き出す。
 犬神自身は、気付いていないようだけれど。
 他人がいたら眠れないと言うくせに。
 白沢とは、同じ褥で眠ることを許すのだ。
 それはそれだけ、白沢の存在を、己の裡深くに、招き入れているということだというのに。
 それだけ、白沢が犬神にとって、特別な存在になっているということ。
 その事実が、どうしようもなく、嬉しい。
 上機嫌に、簀子を歩く白沢に、犬神だけが、いつまでも怪訝そうに小首を傾げていた―。