身に纏うのは苛立ち。
 ずくりずくりと、熱を孕んだ頬が熱く、痛い。
 脳裏にちらつくのは、見下したように、否、見下して笑う、顔。
 湧き上がる苛立ちのまま、足早に歩く。
 あてなどないが、このまますんなり離れに戻る気にはなれなかった。

「なんだい…」

 呟いた声は、けれど、声にした途端、随分と悲しげな色を帯びて。
 そんな、自身の声に、また苛立って、思わず、舌打ちが漏れた。

「おぅい。久しいじゃないか」

 背中で誰かが声を上げる。
 けれど、どうせ自分ではないだろうと、かまわず歩き続けた。

「なんだい、無視するこたぁ無いじゃないか」

 声と共に、掴まれたのは肩。
 振り向かされ、妖の気配は感じたけれど、そこにいる顔に見覚えは無くて。

「誰だいあんた。人違いだろう」

 応える声に、棘が滲む。
 睨み上げれば、目の前の男の、糸のように細い眼が、僅か、驚きに見開かれた。

「どうしたんだいお前、頬が腫れてるよ」
「―――っ」

 尤も触れられたくないところに、見知らぬ男に触れられ、屏風のぞきは肩に置かれた手を、荒く振り払う。

「うるっさいよっ、誰だいあんた…!」

 思わず、大きな声が出ていた。
 口を開けば、切れているのか、口角が痛い。
 大きな表情の動きにまた、頬が痛んだ。
 通りを行きかう人が、一瞬、ちらと二人を振り返る。
 気にも留めずに睨みつければ、男は、一瞬驚いたように片眉を上げ、しばし、逡巡するように視線を巡らせた。

「あぁ…そうか、この姿を見たことがあまり無いかもしれないね」

 呟くように零れた言葉に、屏風のぞきは訝しむように眉根を寄せる。
 立った気を一端沈め、気配を探れば、確かに、知っているそれで。

「おたえの部屋にいるときは、人の形なんて取らなかったからねぇ」

 その言葉に、一息に、記憶の糸が繋がる。
 今度は屏風のぞきが、驚きに目を見開いた。

「守狐…っ?」

 また、大きな声が出た。
 ちりと、痛む口の端。
 ずくり、疼く頬。 
 けれど今度は、もうそれに苛立つことはなくて。
 めずらしい仲間の人形に、屏風のぞきはただ驚く。

「なんだいこんなとこで、何してるんだい?」
「若だんなにね、薬を預かってきてそのついでに…」

 言いながら、守狐の細い指が、指し示すのは稲荷のお社。
 大方、仲間の様子でも見に来たのだろう。
 往来の道の端に突っ立ているのもなんだからと、二人の足が自然、そちらへ向かう。
 馴染みの空気に、苛立ちも消えて。
 
「たまにはこの形もやっとかないと忘れちまいそうでね」

 人気の無い境内の裏、言いながら、細い目を更に細めて笑う守狐に、吊られたように笑う。

「―――痛っ」

 途端、今度ははっきりと疼いた頬に、思わず、顔をしかめた。
 守狐が、心配げに眉根を寄せる。

「どうしたんだい、それ」
「…ちょっとね…」

 言い淀む空気を察したか、守狐が困ったように笑った。

「また白沢殿とやりあったか」
「…皮衣様にあいつをすっこめるように言ってくれ」

 胡乱げに空を睨みながら零された言葉に、守狐が声を立てて笑う。

「…しかし…痛そうだ…」

 呟き、すいと顔を近づけられたと思った途端。
 べろり、頬を舐め上げられ、思わず、身を竦ませる。

「やめろったら。くすぐったいだろう」

 身を押しやれば、守狐は一瞬、小首を傾げ、浮かべたのは苦笑。

「ああすまない、どうにも狐の時の癖が出ちまってね」

 笑えばまた、頬が痛んで。
 思い出すのは苛立ちと、湧き上がってくるのは悲しさで。
 腰を降ろした石の上、生した苔を、感情を誤魔化すように、千切る。
 鼻腔を掠める、土の匂い。
 舌打ちと共に顔をしかめる屏風のぞきに、守狐が思いついたように口を開いた。

「お前、荼枳尼天様のお庭に来たらどうだい」
「へ?」

 唐突な言葉に、屏風のぞきが、呆けたような顔を晒す。
 
「だってそうすりゃあ、殴られることも無いし。…お前、狐達とは仲が良いだろう?」

 皮衣様から、口を利いて貰えばいいと言う守狐に、はたと我に返った屏風のぞきから零れたのは笑い。

「そりゃあ出来ないよ。…あたしは何だかんだであの離れは好きなんだ」
「…そうかい。なら…仕方ないね」

 一瞬、意外そうに片眉を引き上げた守狐は、けれどそれ以上は何も言わずに、ただ微笑う。
 満たすのは、穏やかな沈黙。

「屏風のぞき…っ」

 それを、唐突に破った声に、びくり、屏風のぞきの肩が震えたのは、驚きの所為ばかりではなくて。
 近づく足音に、知らず、腰が浮く。

「に…仁吉さ…」

 呼ぶ声が、引き攣る。
 頬の疼きに、つい先刻の事が思い出されて。
 見上げる目に、怯えが滲む。
 
「若だんなが心配なさってるんだよ。ったく手間かけさせるんじゃないよ」

 言いながら伸ばされる手が、止まる。
 割り入るように、二人の間に立つ守狐。
 まるでたった今、その存在に気付いたかのように、仁吉がその顔に、人好きのする微笑を、浮かべた。

「これは守狐殿。…先刻はどうも」

 丁寧に礼をするその所作に、一分の隙も無くて。
 相変わらず嫌味な奴だと、内心、毒吐く屏風のぞき。

「白沢殿…あんまりこいつを苛めちゃあ駄目ですよ」

 冗談めかして告げられた言葉に、仁吉より早く、反応したのは屏風のぞきで。

「誰がいつ苛められたって言うんだいっ?」
「お前は黙ってろ」
 
 低い声と共に、何故か仁吉に睨みつけられ、屏風のぞきは訳が分からぬまま、不満げに唇を尖らせる。

「悪いのはこいつですよ」

 言いながら、するりと、守狐を躱して割って入ってきた仁吉に、強引に手首を掴まれ、そのあまりに理不尽な言葉に、反論しようと口を開く。

「何…っ」

 言ってやがると、続くはずだった言葉は、舌ごと絡め取られて。
 隋分と近くにある仁吉の顔に、訳が分からなくなる。
 見開いた目の端、驚いたように目を見開く守狐と、視線が合う。
 途端、我に返り、慌てて引き剥がそうともがけば、存外あっさりと、離れてくれて。

「あ…あんた何考えて…」
「あたしはこれでもこいつを気に入ってるんでね。手放す気はありませんよ」

 詰る己の方など見もせずに、守狐に告げる仁吉の、その言葉を理解した途端、かっと頬が熱くなる。
 守狐はただ、面白そうに笑っただけだった。
 冗談と思ってくれたのか。
 そのことにほっと安堵しながら、それでも、やることが酷いと、仁吉を睨み上げた。

「気でも違ったのかいっ?」
「うるさい。帰るぞ」

 掴まれた手首はそのままに、引き摺るように歩き出され、屏風のぞきは肩越しに、守狐を振り返る。

「またなっ」

 叫べば、手を振り返してくれる守狐。
 途端、ぎりと、音がするほどに手首を掴む手に力を込められ、痛みに呻く。

「痛っ…仁吉さん、痛いよ」
「うるさい」

 先程からこればかりだと、不満に、また、唇が尖る。
 どうやら相当、機嫌が悪いらしい。
 帰ったらたんと嫌味を言われるかもしれない。

―それでもまぁ…迎えに来てくれたんだから良しとするかね―
 
 思い出すのは先程の言葉。
 訳が分からなかったけれど、確かに、それは嬉しくて。
 引き摺られるようにして歩く屏風のぞきのその口の端には、嬉しげな微笑が、微かに浮かんでいた―。