「おぅい。久しいじゃないか」

 懐かしい姿を見つけ、思わず、声をかける。
 けれど気付かぬのか、それは立ち止まることは無くて。
 もう一度呼びかけ、肩を掴めば、返って来たのは訝しげな表情。
 その頬は、殴られたように腫れていた。
 白い頬に、それは酷く痛々しくて。

「どうしたんだいお前、頬が腫れてるよ」
「―――っ」

 どうやら触れられたくないところに、触れてしまったらしい。
 荒く手を振り払われてしまう。
 その切れ長の目に、宿るのは苛立ち。

「うるっさいよっ、誰だいあんた…!」

 怒鳴れば、切れた口の端が痛むのだろう、新たに、血が滲む。
 どうやら本当に、自分のことが分かっていないらしい。
 そう言えば、一緒にいる時には、あまりこの姿はとっていなかったことを思い出す。
 人形の己の目は酷く細い。
 それがどうにも気に入らなくて、人の形は避けていたから。

「おたえの部屋にいるときは、人の形なんて取らなかったからねぇ」

 その言葉に、一息に、記憶の糸が繋がったのか、屏風のぞきの目が、驚いたように見開かれた。
 此処最近はあまり会ってはいなかったから、懐かしさが募る。
 往来の道の端に突っ立ているのもなんだからと、近くのお社へ自然、足が向く。
 
「たまにはこの形もやっとかないと忘れちまいそうでね」

 人気の無い境内の裏、言いながら、細い目を更に細めて笑えば、吊られたように笑った屏風のぞきの顔が、しかめられた。

「―――痛っ」

 表情を動かせば、頬が痛むのだろう。
 先程よりも、頬が赤みを増しているような気がする。

「どうしたんだい、それ」
「…ちょっとね…」

 言い淀む空気に、大方の予想がつく。

「また白沢殿とやりあったか」
「…皮衣様にあいつをすっこめるように言ってくれ」

 胡乱げに空を睨みながら零された言葉に、おもわず、声を立てて笑う。
 その時、ふっと、気配を感じて視線をやれば、迎えに来たのか、仁吉の姿が視界の端、留まる。
 それは、直ぐにこちらに気付いたようで。
 
―白沢殿も相も変わらず不器用な方だ…―

 不意に、湧いたのは悪戯心。
 旧友を取られたのだ。
 これくらいの意趣返しは許されるだろう。

「…しかし…痛そうだ…」

 呟き、すいと顔を近づける。
 間近で見れば、それは一層痛々しくて。
 べろり、頬を舐め上げれば、びくり、身を竦ませる屏風のぞき。
 一瞬、視線を仁吉にやれば、驚いたように目を見開いたまま固まって。
 屏風のぞきには気付かれぬよう、にやり、目を眇める。
 仁吉の顔が、僅か、強張った。

「やめろったら。くすぐったいだろう」

 けれど、屏風のぞきから返ってきた反応は至って普通。
 何の疑問も持っていないようで。
 大方、狐のときの癖でやったとでも思っているのだろう。 
 思わず、零れる苦笑。

「ああすまない、どうにも狐の時の癖が出ちまってね」

 相手が思うままの言葉を吐き出せば、声を立てて笑う。
 そうすれば、また、頬が痛むのか、その表情が不意に、翳る。
 苛立つままに寄せられた眉根、けれど、俯いたまま、湿った地面を見下ろす瞳は、どこか悲しげで。
 白い手が、腰を降ろした石の上、生した苔を、感情を誤魔化すように、千切る。
 鼻腔を掠める、土の匂い。
 舌打ちと共に顔をしかめる屏風のぞきの、その派手な着物が、なんだか酷く、寂しげに、守狐の目に映った。

「お前、荼枳尼天様のお庭に来たらどうだい」

 口を吐いて出たのは、誘いの言葉。
 視界の端でまた、仁吉が固まるのが映る。
 声は、届いているのだろう。
 
―いい加減こちらへ来たらいいものを…―

 内心、零れるのは苦笑。 
 これでは、旧友が可哀想だと、思う。

「へ?」

 唐突だったのだろう、屏風のぞきが、呆けたような顔を晒す。
 
「だってそうすりゃあ、殴られることも無いし。…お前、狐達とは仲が良いだろう?」
 
 お前がそんな顔をするならと、言外に込め、ちらり、視線をもう一度仁吉に向ければ、反応を見る気なのか、そこから動く気配は無かった。
 けれど、屏風のぞきから零れたのは笑い。

「そりゃあ出来ないよ。…あたしは何だかんだであの離れは好きなんだ」

 そう言って、ひどく幸福そうに笑うから。

「…そうかい。なら…仕方ないね」

 それ以上は何も言わずに、ただ微笑う。
 穏やかな空気が、辺りを満たす。
 視界の端、仁吉が動くのが見えた。

「屏風のぞき…っ」

 不意に響いた声に、びくり、屏風のぞきの肩が震えたのは、驚きの所為ばかりではないだろう。
 その瞳に滲む怯えの色に、それでもと、守狐は腰を上げる。
 
―一応、白沢殿にも一言言っておかねばね―

 自分でも、世話焼きだと思う。
 こういうところを、皮衣に見に抜かれたのかと。
 
「若だんなが心配なさってるんだよ。ったく手間かけさせるんじゃないよ」

 言いながら伸ばされる手が、止まる。
 二人の間に割って入れば、向けられるのは、人好きのする微笑。
 ただし目が、笑ってはいない。

―ああ。どうやら随分怒らせちまったようだねぇ…―

 自分で仕掛けておきながら、どこかぼんやりと、守狐は思う。

「これは守狐殿。…先刻はどうも」

 丁寧に礼をするその所作に、一分の隙も無くて。
 言葉の裏、滲む怒りはさらりと躱し、作るのは笑い顔。

「白沢殿…あんまりこいつを苛めちゃあ駄目ですよ」

 あんまりひどいようなら自分が貰い受けると、言外に込めれば、どうやらこちらは伝わったらしく、瞳が、猫のそれのように細くなった目で、微笑まれた。
 背中で言い様が気に食わなかったらしい屏風のぞきが、抗議の声を上げてきたが、仁吉の低い声で黙らされる。 

「悪いのはこいつですよ」

 言いながら、するりと躱され、振り返ったときには、仁吉に深く口付けられる屏風のぞきと目が合って。

―やってくれるねぇ…―

 思わず、細い目を見開く。
 けれど己以上に、目を見開いて固まる屏風のぞきが、何だか可笑しくて。

「あ…あんた何考えて…」
 
 慌てて引き剥がし、抗議の声を上げるその目元が、朱に染まっていた。
 
「あたしはこれでもこいつを気に入ってるんでね。手放す気はありませんよ」

 はっきりと、告げる声の強さに、己の瞳を真っ直ぐに射抜く瞳に、宿る光の強さに、仁吉の想いの深さが見て取れて。

―なるほど…想い合ってるのは間違いないようだ―

 頷きながら、仁吉も不器用な奴だと、笑う。
 ぎゃんぎゃんと、詰る屏風のぞきなど構いもせずに、引き摺るように連れ帰る仁吉を、今度は阻まず、道を空ける。

「またなっ」

 引き摺られながら、それでも肩越しに叫ぶ屏風のぞきに、笑い顔で手を振り返して。
 仁吉の機嫌が、一層悪くなったのが、空気で分かり、次に零したのは苦笑い。
 随分意地の悪い世話の焼き方だったと、己でも思う。
 
―けどまぁ私だって屏風のぞきのことは気に入ってたんだし。それをやるんだからこれくらいは良いよねぇ…?―

 見上げる空が、僅か、曇り始めて。
 恐らくはこれを察して、迎えに来たのだろうと、思う。

―自分で追い出しといて…―

 自分で迎えに来ていれば、世話無いだろう。
 一人、笑いを零す守狐を、社の狐達が、小首を傾げて見守っていた―。