春の穏やかな昼下がり。
何処からともなく舞い込んできた、薄紅色の花びらが、くるり、ふわり。
社の小さな屋根を、掠め飛ぶ。
午後の日差しを受けた、ぬくい庭石の上で、守狐は一人、丸くなる。
人気の無い、其処に。
不意に、他者の気配が、入り込む。
「こんにちは」
掛かる声に、閉じていた目を、開けて。
ゆうらり、一つ、尾を揺らした。
「これは珍しいね。…いらっしゃい」
笑みを向けると、ふうわり、笑みが返って来る。
万治郎の嫁御は、いつまで経っても、まるで少女のような笑みを持つ。
「皮衣様から、お薬が…。若だんなの調子はどうですか?」
その言葉に、知らず、漏らすのは苦笑い。
おたえの子は、相変わらずひどく身体が弱いから。
今日も、離れで寝付いているらしい。
「言ってくれれば取りに行くのに…」
「そうすればお前は私に会わんと帰るだろう」
唐突に割って入ってきた声に、守狐は思わず、眼を見開く。
一拍後に漏らすのは、苦い笑い。
一体何処に隠れていたのか、嫁御の後ろから現れたのは、万治郎。
守狐の意表を突いたと、得意げに胸を反らす。
「どうしてもついて来るって聞かないものですから…」
のんびりと、笑う嫁御に、構わないと笑みを返すけれど。
小言は出来たら勘弁していただきたいと、内心思う。
「大体お前がずっと此処で守狐なんぞやっとるからいかんのだ。お前はもう…」
案の定、延々と小言を並べかけた万治郎の視線が、ふと、守狐の背中に、流れる。
振り返れば、見慣れた市松模様が、手を振っていて。
尾を振り返せば、嬉しそうに駆け寄ってくる様に、自然、笑みが零れる。
「若だんなについてなくていいのかい」
「うん。熱も下がりかけてるからね。退屈しのぎに桜でも取って来てやろうと思って」
「一緒に行こう」と、抱上げてくるのに。
少し困ったように笑いながら、視線で、万治郎夫妻を示す。
初めて、その存在に気付いたというように。
切れ長の眼を、僅かに見開く屏風のぞきに、万治郎の眼が、眇められた。
「付喪神か」
「……だったら何だい」
万治郎の声に滲む、僅かに見下すような響きを、敏感に感じ取ったのか。
応える屏風のぞきの声に、棘が滲む。
「師弟、お前はこんな小妖とだらだらとじゃれあっていられる立場では無いのは分かるだろう」
「守狐。何だいこのいけ好かない野郎は」
胡乱げに睨みつけながら。
守狐に低く問いただす様に、万治郎の眉が、吊りあがる。
ゆうらり、舞い込む薄紅色の花びらも。
温い、午後の陽だまりも。
何一つ似合わぬ、剣呑な空気が、流れ出す。
「生意気な口を利くでないわ!そもそも師弟はお前なんぞが軽々しく…」
「へっ!何だい何だい偉っそうに。軽々しかろうが重々しかろうが、守狐が良いんだから良いんだよ!」
「屏風のぞき…」
困った様に笑う守狐と、嫁御の視線が、不意にぶつかる。
互いに漏らす、苦笑い。
「…お前は師弟の歳の半分も生きてはおらんだろう。師弟の事を何も知らぬからそう言えるのだ」
呆れた様に、溜息混じりに言う万治郎に、屏風のぞきが鼻を鳴らす。
「歳がどうした。妖なんざほっといたら永劫生き続けるんだ。年月なんか気にするほうが馬鹿らしいよ」
言い切るその様に、自然、守狐の口元に、笑みが浮かぶ。
きゅっと、守狐を抱上げる手に、力を篭めて。
「それに、」と、屏風のぞきはさらに、言葉を続けた。
「守狐がどんな奴だろうが、こいつの真の在り処だけ、分かってたら十分だ」
思わず見上げた、その眼は強い光を宿して、万治郎を睨みつけていて。
抱上げてくる腕は、白く細く、弱いくせに。
意思だけは、誰より強い。
「はい、師父の負け」
のんびりと笑いながら。
不意に、遮るように割って入った嫁御が、ぺちりと、軽く、夫の頬を挟み込む。
不意を突かれて、きょとんと目を見開くその隙に。
ぐいと、夫の手を引いて。
「では師叔。ごきげんよう」
「ああ、またおいで」
「ちょっ…こら、私はまだ…」
何事か言い募る万治郎の声だけを残して。
二つの影が、闇に消えた。
「何だったんだ…?」
零れるように呟くのに。
小さく、笑みを零して。
変化を掛けて、とるのは人形。
「うわ…っ?」
唐突なそれに、支えきれなくなった屏風のぞきが、後に尻を突く。
「いったぁ…っ何すんだい!」
非難がましく睨みつけてくるその鼻先を、ぺろり、舐め上げて。
怪訝そうに小首を傾げるのに、向けるのは、満面の笑み。
「屏風のぞき」
「何だい?」
ちゅっと、音を立てて口付けて。
その自分と同じぐらい、細い身体を抱きすくめる。
「惚れ直したよ」
囁き落とした言葉に、さっと、屏風のぞきの頬に、朱が走った。
確かに、守狐は、屏風のぞきよりもうんと長い年月を生きている。
確かに、屏風のぞきは、守狐のことを何も知らないかもしれない。
それでも、それでも。
一等大事なことは、誰より良く、知っているから。
それは何より強いことだから。
それさえ、分かっていてくれたら上等だと、愛おしさに口付けながら、守狐は笑みを零した。