ざあざあと、けぶるように雨が降る。
この分では直に、川が溢れると、仁吉は宿の窓から、暗い空を睨みつけた。
宿の、古びた桟を掴む手指が、ぎりと、爪を立てる。
湿気た、不快な木屑が爪に絡んだ。
佐助がいるから、大事な一太郎は無事には違いないだろうが。
それでも、己の眼の届かぬところにあるというのは、不安だった。
「すまないね」
不意に、小さく背中から掛けられた声に、意識を戻される。
振り返れば、白い顔で、屏風のぞきが笑っていた。
只でさえ弱っているその身に、この湿気は拙かろうと、仁吉は今更のように障子を閉める。
本当は、長崎屋を思うことで、目の前の現実から、意識を逃がしていただけだ。
ほんの少しだけ、雨音は遠退いていた。
「別に。若だんなたっての願いだからね」
お前のためじゃないと、つい、いつもの憎まれ口をきいてしまう己が歯がゆい。
いつもの様に噛み付いてくるかと思えば、屏風のぞきは只、力なく笑っただけだった。
その様に、微かに、仁吉の眉間に、皺が寄る。
「あの子は優しい子だからねえ…。諦めろといっても聞かぬから…」
己のことなのに。
まるで他人事のように、屏風のぞきは困ったように、笑う。
けれど、分かりすぎるくらい良く、現実を知っていることは、仁吉にも分かっていた。
「いっそあんたが焚き付けにでもしてくれりゃあ、あの子も諦めがつこうに」
「そうすりゃあ、あたしが若だんなから恨まれるだろうが」
応える声音が、硬い。
一体どんな心持で、そんな事を吐き出すのか。
知らず、手指を握りこむ仁吉に気付かぬように、屏風のぞきは「違いないねえ」と、声を立てて笑った。
本体に凭れる様に座る、その胸が苦しげに、上下する。
「辛いのか」
「まあ、ね。…本体が壊れちまった上に、この雨じゃあねえ」
本当についてないと、笑う。
あの火事から、屏風のぞきは良く笑う。
己の所為だと、涙を流す一太郎を、誰より慰め、励ましたのは屏風のぞき自身だ。
命の灯が、細くなりつつあるというのに。
本人はただ、笑うばかりで。
己が身に起こったことを、ありのまま、受け入れていた。
いっそ泣いて取り乱してくれれば楽なのにと、仁吉は思う。
そうすれば、己も少しは、優しく触れることが出来ただろうに。
「気を、分けてやろうか?」
「おや珍しい。気遣ってくれるのかい?」
揶揄する様に見上げられて、仁吉は僅か、息を詰める。
同情で、触れる訳ではない。
けれど仁吉の応えを待たずに、屏風のぞきはその細い首を、横に振った。
「先ならこっちからお願いするけどね。…こうも壊れちまったら、だた漏れになるだけさ」
苦く笑いながら。
屏風のぞきは背中の本体を、振り仰ぐ。
煤け、破れ、壊れたそれは、何度修理に出したところで、完全に元にはもどらない。
妖気は失われるばかりだった。
「ああでも、あんたがつけた傷は、先の修繕で綺麗に直ったよ」
可笑しそうに笑いながら、屏風のぞきの指先が、己の本体、かつて仁吉が脅しで傷つけた辺りを、なぞる。
けれどその美しかった表面は、今は真っ黒に煤けて。
屏風のぞきの、色を失った指先を、黒く汚した。
本体が壊れてしまった付喪神がどうなるかなど、分かりすぎている。
現に、織部の茶器は、もういない。
その、遠くない未来を、様々と見せ付けられる気がして。
仁吉はそっと、視線を逸らす。
「いろいろあったよねえ。本当に」
そんな、仁吉を他所に。
屏風のぞきは一人、懐かしむように、己の本体を、見上げる。
「古道具屋で、伊三郎旦那と会って。初めて、外に出て…」
そう遠くない過去を語る横顔は、あまりに穏やかで。
あまりに、遠い。
思わず、手を伸ばしそうになるほどに。
「あの子が生まれて…遊び相手になって。…長崎屋は、本当に良い所だよ」
何事か思い出したように、その口元が、楽しげな笑みを刻む。
「あんたらとも、色々揉めたけどね。…あのやり取りも別段嫌いじゃなかった」
そう言った、屏風のぞきの目が、初めて、仁吉に向き直って。
「好きだよ。仁吉さんが」
屈託無く、笑った。
その、笑い顔に。
思わず、息を詰める。
似たような言葉を、無理矢理吐かせた事もあったけれど。
こんな風に、あまりに素直な言葉で、告げられたのは、初めてだった。
その、事実が、裏に潜む真実が、あまりに、胸に痛い。
「何だい。どうした」
困ったように、耳元で笑う声。
抱きすくめた身体は、ひどく冷たい。
「お前なんか…」
声が、震える。
何かが、頬を伝った。
「端からいなけりゃ良かったんだ…」
あまりに、深いところまで来てしまった。
引き返すことなど、出来ぬほどに。
なのに、目の前にあるのは、どうしようもない現実で。
嫌だやめろと、駄々子のように叫びたかった。
叫んで、どうなるものなら、叫んでいた。
けれど己に出来ること等、何一つ無い。
あまりに、無力すぎた。
齢千年を超えても。
大妖と、みなが畏怖する妖力を持っていても。
結局、この様かと、頭の片隅、自嘲する。
「好きだよ。仁吉さんが」
屏風のぞきの、白い手は、ただひどく優しく穏やかに。
己を抱きすくめる仁吉の背を、撫でていた。