「貴方も行ってらっしゃいな」
 
 他の妖狐たちの、浮き立つ声を聞きながら。
 おたえが、困ったように笑う。
 守狐は僅かに、視線を逸らしながら、苦く笑みを浮かべた。

「守役が離れたら終いだろう」

 殆どの妖狐たちは、一太郎と一緒に花見に出向く。
 当然、あの大妖二人も、長崎屋を留守にするから。
 殆どがら空きになる其処に、大事なおたえを置いておくわけには行かなかった。

「あら、なら私が引き受けますわ」

 不意に、響いた声に、顔を上げれば、いつの間に現れたのか。
 部屋の隅、万治郎の嫁御が、にいこりと、愛らしい笑みを浮かべていた。

「まあ、久しぶり」
「ご無沙汰しております」

 丁寧に、頭を下げる嫁御に、守狐は小首を傾げる。
 身重のその身を案じて。
 常に傍にいる、亭主の万治郎が見当たらない。
 問えば、そのことで来たのだと、少し困ったように笑いながら、嫁御が言った。

「実は、師叔に師父のお目付け役をお願いしたいのです」
「師兄の?」

 一体何の話だと問えば、件の花見に、万治郎も行くのだという。
 その言葉に、守狐は寸の間、額を押さえた。

「宮を預かる者が花見に浮かれて…」

 情けないと、出掛かった言葉は、嫁御の手前かろうじで飲み込む。
 けれど分かってはいるのか、嫁御も情けなさそうに、笑う。

「一応…他の妖狐たちが羽目を外しすぎない様ににお目付け役として出向くとは言ってましたが…」
「羽目を外しそうなのはどちらだか」

 乗せられやすいのが万治郎だ。
 酒には強いが、数多の妖が集う場で、また諍いが起こらないとも限らない。
 もしそうなった時、万治郎を止められるのは。

「私だけということか…」

 呆れた様に溜息を吐けば、「はい」と、嫁御が困ったように笑った。

「行ってきなさいな。…屏風のぞきも、行くんだから」

 おたえの言葉に、そこに込められた意味に、守狐はただ、苦く笑う。

「じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな?」

 覗き込めば、嫁御は嬉しそうに笑って一つ、頷いた。



「じゃ、あたしからも、お二人へ」

 なんて、調子の良い言葉を並べて。
 栄吉たちに酌をする姿に、守狐の細い目が、ほんの僅かに眇められる。
 道中は余りに危うい足取りに、思わず肩を貸したほどだったが。
 青白かった頬は、酒が入りほんのりと色づいて。
 心底、楽しげに笑う横顔に、守狐は人知れず、安堵の息を吐く。
 一層騒がしくなった周囲に顔を上げれば、万治郎が化け合戦に担ぎ出されているところだった。

「屏風のぞき」

 そんな、喧騒を横目で見ながら。
 守狐はそっと、屏風のぞきの冷たい手を、引く。
 
「なんだい?どうした」

 その、久しぶりに赤みの差した頬を、小さな薄紅が滑る。
 ふわり、一陣の風が吹いて。
 舞い散る薄紅を、巻き上げる。
 屏風のぞきが小さく、歓声の声を上げた。

「守狐…?」

 満開の花天井の下。
 守狐はきゅっと、腕の中の愛しい人を掻き抱いた。
 
「どうしたんだい」
「他の奴に酌などするでないよ」

 耳元、低く囁けば、掠めた吐息に、屏風のぞきの身体が、小さく跳ねる。
 
「何だ。妬いたのかい?」

 揶揄する様に笑いながら、振り仰いでくる目元に、軽く口付けを落としながら。
 守狐は艶然と、笑ってみせる。

「当たり前だよ。私はお前に惚れてるもの」
「ありがとうよ」

 それは、ひどく素直な、はにかむような笑い顔だった。
 常なら、照れ隠しの憎まれ口が返ってくるはずなのに。
 近頃の屏風のぞきは、全くと言って良いほど、それが無い。
 だからか、兄や二人との諍いも、随分数が減っているように思う。

―最も、憎まれ口を叩くほどの元気が無いといえばそれまでだが―

 青白い顔で、屏風の中からただ微笑って皆を眺めるのが常となっているその姿を見ていると、時折、たまらなく胸が締め付けられることが在る。
 
「先にも、こんな風に花見をしたことがあったね」

 「あのときは、お前とあたしの二人だけだったけれど」と、続いた言葉に、記憶は過去の薄紅色の思い出を、描く。
 見上げ、囲まれた薄紅は、ひどく、美しかった。

「ああ、あったね」

 あの時もこんな風に屏風のぞきを抱きすくめて。
 二人、花を愛でた。
 それはひどく、優しく愛しい思い出。

「また、二人でみようね」

 振り仰ぐ顔が、笑う。
 薄紅が、その赤みの差した頬を滑る。
 ひどく冷たい手を取って。
 守狐は、優しく優しく、笑う。

「ああ。また、桜を見よう」

 どんなに年月を重ねようとも。
 身を包む薄紅は、きっと美しいままだから。
 だからきっと、また、二人で。

 屏風のぞきが、ひどく幸福そうに、笑った。