一瞬、その者が何か、分からなかった。
 その異形のなりは、常との人のそれとは、明らかに違う。
 けれど、妖の気配はなくて。
 犬神はただ呆然と、夜の森の中、立ち尽くす。
 それは、向こうも同じ。
 今宵は満月、銀色の光が、木々の途切れに立つ犬神を、夜目にも明るく、照らし出していた。
 人の姿に獣の耳と尾。
 口元から除く鋭利な牙は、明らかに人のそれとは違う。
 ざわめく風が、木々を揺らす。
 枯葉が幾枚か、二人の間を裂いては落ちる。
 
―妖の気配はないね…。なら…人…?―

 まさか。と思った。
 目前のそれは、確かに人のなりをしている。
 半身だけは。
 まだ歳も幼い少女の、その小さな肩は、不自然に広く、その細い首元からは、なんともう一つ、首が生えていた。
 二つの体が、奇妙に溶け合い、重なったような。
 互いに半身を凭れ掛けるように立つその上体は、確かに一人のそれないのに、下肢は二人分、まだ短い着物のすそから、四本の、不自然なまでに細い足がのぞく。

「あなたもあたしをそんな眼で見るの」

 不意に響いた、硬い、どこか嘲る様なその声が、目の前の者の、右の首から発せられたと気づくのに、寸の間、掛かった。

「何…?」
「化け物って。そう言いたいんでしょ?」

 詰る様なその声は、確かに少女のそれで。
 妖でも、色々と厄介事を運んでくる「大人の人間」でもないとわかると、犬神はとりあえず、ほっと肩の力を抜く。
 妖か、大人か、子供か。
 犬神にとって重要なのはそれだけで、後はその者がどんな容姿をしていようが、あまり関係ない。

「お前こそ、俺が怖くはないのかい?」

 急に柔くなった視線に、少女が驚いたように目を見開いた後、さらにその目に警戒の色を滲ませ、口を開く。

「あたしは見世物小屋の『二つ身姫』だよ?いまさら物の怪なんぞ怖くはないわ。…自分自身が化け物なんだから」

 最後の言葉は、やはり、どこか嘲るような色を滲ませていた。
 投げられた言葉に、犬神の心が、疼く。
 十を過ぎるか過ぎないかの少女にはおよそ似つかわしくない、物事を全て諦めた様な、そんな色が、言葉の端々に滲む。
 夜目が効く妖の目で見れば、その細い手足は子供のそれとは思えないほどに荒れていて、柔らかいはずの皮膚に、老婆のそれような皺を刻んでいた。
 その手が、言葉が、『見世物小屋』で『化け物』として育ってきた少女の、声にならに悲哀を、犬神の胸に突き立てる。
 
「な…何を泣いているの…」
「え…?」

 驚きと戸惑いの滲んだ声に、頬に手をやれば、濡れた感触。
 無意識に流れたそれに、戸惑う犬神。
 そんな様に、警戒を解いたのか、少女が不意に視線を和らげ、微笑した。
 動かないのだろうか、己の半身を引きずるようにして、よろよろと犬神に近づくと、恐る恐る、その荒れた、細い手を伸ばす。

「どこか痛いの…?」
「…分からない…」

 戸惑いの色を隠しもしない犬神の言葉に、少女は声を立てて笑った。
 笑うと、その表情は歳相応で、ひどく愛らしい。
 二人の間の空気が、和む。
 犬神がつられたように笑った時だった。
 少女が不意に咳き込み、その細い体が、地にくず折れる。

「おい―っ」

 とっさに、支えたその背は、奇妙に歪んで、恐ろしいほどに細かった。

「―っ」

 思わず、言葉を失う。
 少女が咳き込むたび、動かぬ半身が、力なく揺れる。
 苦しげに喘ぐ、細い首のすぐ左側から生える、もう一つの首に乗った顔は、ひどく、醜悪だった。
 埃にまみれてはいるが、艶やかな黒髪を持つ少女とは対照的に、髪の毛などは一本もなく、鼻は僅かに形を留めるばかり。
 眉もなければ、睫毛も無い、虚ろに見開かれた目はなにも映してはおらず。小さな、ひび割れた唇は、呆けた様に開いたまま、その口の端から唾液を滴らせていた。
 半身は確かに、ごく普通の、愛らしい少女のそれなのに、その体の半分に、そう、まるで寄生するように融合しているそれは、正に、化け物だった。
 着物から覗く全ての皮膚、顔も、だらりと垂れ下がった手足も、産毛すらなく、赤く爛れ、不自然に艶めいては、少女が咳き込むたび、醜く引き攣れる。

「醜いでしょう…?」

 その言葉に、はっとして顔を上げると、哀しげに笑う少女と、目が合った。
 咳は収まったらしいが、まだ整わぬ呼吸が、苦しげで。

「大丈夫かい?」

 問いかけると、少女は小さく頷き、犬神に支えられ、近くの木の根に、腰を降ろす。
 ごつごつとした硬い感触に背を預け、少女は深く、息を吐いた。

「あたしね…もう長くないんだ」

 それはまるで、頭上の月のことでも話すように、ごく自然に告げる少女。
 
「……」
「こんな醜いなりをしてるから、神様が長くこの世に留めては置かないんだと」

 全てを諦めて笑う少女の横顔は、悲しいほどに、透き通っていて。
 少女は首を傾け、己の半身を見遣る。

「これね、あたしの姉ちゃんなんだ」

 「妹かもしれないけど」と続け、少女は笑う。
 
「生まれたときからずっと一緒。…親に売られた時も…見世物にされてる時も…お客に石を投げられてる時も…ずっと一緒」

 頭上の枝から一枚、木の葉が落ちる。
 黒い影でしかないそれを、少女はそっと目で追いながら、ゆっくりと穏やかに、哀しい言葉を紡ぐ。

「こんなんだから…生まれてから一度も、口を利いたことは無いけど…」
「うん…」

 犬神は黙って、少女の次の言葉を待つ。
 それしか、己にできることは無いと、分かっていたから。
 どんな言葉も、全て無に帰してしまう事ぐらい分かっていたから。
 流れる雲が一瞬、月を隠し、辺りが真の闇に沈む。
 ざわりと、木々を揺らす風が、やけに耳に響いた。

「姉ちゃんしかいなかった…」

 呟く少女の顔を、現れた月が照らす。
 けれどその表情は、何の感情も、映してはいなかった。

「けど平気。姉ちゃんがいるから、死ぬときも一緒だから」

 「だから死ぬのは怖くない」と、少女は言う。
 その言葉の意味する哀しさに、犬神はきゅっと、己の手指を握りこむ。
 親に捨てられ見世物にされ、今まさに、独りで死に行こうとしている少女。
 そして何より哀しいのは、その全てを、その細い体に受け入れていることだった。

「おぅい二つ身」

 不意に、静寂を破った声に、二人はびくりと身を竦ませる。
 がさりと、少し離れた茂みが、揺れる。
 少女が弾かれた様に犬神を見遣り、早口に言った。

「不寝の番だ。早く行って。見つかったらあんたまで見世物にされちゃう」

 早くと、己の肩を押しやる、その小さな手を、犬神はきゅっと、握り返す。

「…?」

 怪訝そうに見返してくる瞳に、犬神の心から、迷いが消える。 
 支えになれるとか、救ってやれるとか、守れるとか、そんなことは、分からない。
 けれど、たった今出会ったこの少女を、犬神は独りにはしたくないと思った。

「俺も、一緒に行く」
「―――っ?」

 犬神言葉に、まだ幼い黒目がちの瞳が、零れんばかりに見開かれた―。