「二つ身はよくできた奴だ。自分が死ぬのを分かって、身代わりを連れてきたんだからなぁ」

 下卑た男の笑い声に、妖封じの札がべたべたと張られた竹網の檻の中、犬神はうっとうしげに眉根を寄せる。
 そんな犬神を、傍らの少女は、心配げに見つめた。

「ねぇ…大丈夫?」
「大丈夫。俺は人ではないから」

 言いながら、せめて少しでも暖が取れるようにと、ようやっと腕一本差し出すことのできる網目から手を伸ばし、まばらに敷かれた藁を、かき集めてやる。
 薄汚れたぼろ布に、その不自由な身を包みながら、妖封じの札などまるで無視したその所作に、少女は微かな笑い声を零す。

「ありがとう。…えっと…」
 
 名を呼ぼうとして、己が犬神の名を知らぬことに気づいた少女の言葉が、宙に浮く。
 察した犬神が、小さく呟いた。

「犬神」
「いぬがみ…?」
「うん」

 頷く。
 少女は口の中でもう一度、小さく繰り返して、微笑んだ。

「ありがとう犬神」

 その、花開くようなあどけない笑みに、つられ、犬神の口元にも笑みが浮かぶ。
 薄暗い、陰鬱とした小屋にはおよそ似つかわしくない、和んだ空気が零れた。

「明日…座頭に掛け合ってあげるね。…籠の中じゃ横にもなれないでしょう?」
「ありがとう」

 名を、聞き返したりはしなかった。
 名前など、この小屋に居る者たちが持たぬことぐらい、分かっていたから。
 「二つ身姫」それが、唯一、少女を表す記号だったが、そんなもので呼びたくは無かった。

「でもいいよ。そんなことしたらお前が叱られちまうだろう?」

 確かに、犬神が押し込められた竹篭は、うんざりするほどに作りは屈強だったが、まだ少年の、犬神の小さな体すら、横たえることなどできぬほどに、狭かった。
 背中に当たる、組み合わさった網目が、微かに痛い。
 けれど、耐えられぬほどではないと、犬神は言う。
 少女は戸惑いながら、

「でも…意味が無いのに…」

 と、座頭が阿呆のようにべたべたと貼り散らかした札を見遣る。
 その言葉に、犬神は小さく笑った。

「うるせぇぞ二つ身」
  
 唐突にあがった怒声に、驚いて見遣れば、坊主頭の男が、こちらを睨み付けてくる。
 一見、その身は常の人とは変わらない。
 けれど、ここに来た時、夜明けの日の元に照らし出された男の手には、指と指との間に薄い皮膚が、ちょうど水かきのように張っていたのを、犬神は見ていた。
 この異形の集団の中では、比較的『マシ』な方だと、少女が言っていたのを思い出す。

「あ…ごめんよ…」
 
 すまなそうに眉尻を下げる少女に、「魚男」と呼ばれる男は、不機嫌そうに寝返りを打つ。
 狭い小屋の中、皆、見世の悲劇を忘れるように、眠っていた。
 眠りの中では唯一、己の悲劇を忘れられるから。
 つらい現実も、底知れぬ孤独も、忘れられるから。

「……」

 少女と犬神は苦笑を一つ交わして、見世に備えるように、そっと瞼を閉じた―。