昏い狭い莚掛けの小屋の中、ひしめき合う人々の、ざわめく声が響く。
犬神が『見世の間だけ』と、押し込まれた、相変わらずわざとらしく妖封じの札が貼られた、檻の横、魚男が、巨大なたらいに潜っては、ぬらりとした水底からその、蛙の様な水かきのついた手を、客に向かって伸ばす。
ちゃぷりと跳ねた水滴が、犬神の着物の裾を、僅かに濡らした。
「何とおぞましい…」
口々に交わされる、嫌悪感も顕な囁き。
己を貫く、好奇の視線。
もう此処に来て数日、見世に出初めて数回。
それは全く、慣れるということの無いもので。
有象無象の、幾人もの視線に、背筋に走るのは恐怖にも似た感情。
それは確実に、犬神の精神を、蝕んでいた。
「化け物っ」
「―――っ」
投げつけられた飛礫が、頬を傷つけ、皮膚を裂く。
反射的に顔を上げ、牙を剥けば、人のわがどよめきと共に一歩、後退る。
しかし、一拍後には、誰も彼もが、飛礫と罵声を浴びせかけてきた。
突然の騒ぎに、魚男が、慣れているのか、たらいの中から胡乱げに、犬神を睨む。
逆行の中に立つその影は、黒く大きく、まるで一つの巨大な闇だった。
皆が皆、己より弱いもの、異形なものを罵る事で、安心を得たいのだ。
厭わしい、おぞましい、真に化け物なのはどちらなのか。
けれどそれでも、手足を縮こまらせてただ、耐えるのは、あの少女の傍にいたいから。
こんなところ、抜けようと思えばすぐだ。
あの少女を連れて逃げるのも、犬神には容易い。
―でもそんなことをしたって―
無駄だと言うことは、お互い分かりきっていた。
あんななりをした少女が、人の世に受け入れられるわけがない。
あるのはただ、拒絶と嫌悪と、罵声と飛礫だけだ。
此処は皆、世間から弾かれたものの、最後の生きる場なのだ。
此処以外、生きる道のない者達の。
犬神も少女も、哀しいくらいに、そのことは良く、分かっていた。
「―っ」
また一つ、飛礫が顔に当たる。
その時だった。
人の群れに、どよめきが走る。
罵声が止み、変わりに、息を呑む気配が、昏い空気を震わせた。
「鬼の子だ…」
掠れた声で、誰かが、呆然と呟く。
「……?」
怪訝に思い、みなの視線をたどると、そこには、粗末な木箱を組み合わせて作った台の上、客に向かって、愛らしく微笑む少女の姿があった。
「さぁさ皆さんご注目。何の因果か分からぬが…」
座頭である小男の、ひび割れた声が、口上をのたまう。
それに合わせ、少女はしなを作り、そのたび、あの半身が力なく揺れては、観客の視線を、囁きを、集めていた。
―そんな…今日は休みを取ったはずじゃあ…―
少女は昨夜、とうとう血を吐いた。
夜目にもはっきりと赤い、あの血の色は、まだ生々しく、犬神の脳裏に焼き付いている。
見れば今も、その顔色は乾き、青白い。
赤みを帯びた半身は、今日はどす黒く、一層おぞましい姿で、人々の嫌悪を煽り立てていた。
心配げな視線を送る犬神と目が合うと、少女は安心させるように、その乾き、色を失った唇に、微笑を浮かべる。
けれどその笑顔は力なく、更に犬神の不安を掻き立てただけだった―。
「何故休ませなかった」
不意に上から降ってきた声に、座頭は不機嫌そうに眉根を寄せる。
歳はもう四十を過ぎているだろうに、頭三つ分ほどの身長しかない、不自然に小さいこの男は、見下されることをひどく嫌う。
見世も終わり、小屋の中はひっそりと、ただ昏い。
座頭は大きな顎をしゃくって、少女を指す。
「あいつが出させろと聞かなかったんだ」
「嘘を吐けっ」
怒声。
小屋に居た者たちが小さく、悲鳴を上げる。
ぎりぎりと牙を見せて唸る犬神に、座頭の喉から、潰れた悲鳴が上がった。
「本当だよ」
その間に割って入ったのは、当の少女本人。
何故と言い募る犬神に、少女は困ったように笑う。
「だって…飛礫は痛いでしょう?」
そう言って、細い指を、犬神の頬の傷に伸ばす。
「け…っ」
座頭が忌々しげに犬神を睨みつけ、土間に唾を吐き捨てると、隅の暗がりに消えた。
「あたしは大丈夫…―っ」
言い様、少女の体がくず折れる。
小さな咳は、みるみる止まらなくなり、犬神は慌てて、莚に横たえようと、その身を抱え上げ思わず、息を呑んだ。
―軽い―
少女の体は恐ろしい程に、哀しい程に、軽かった。
初めて、あの森で会った夜、支えたその時よりもずっと。
それほどまでに、この小さな体は、弱っていたのだ。
「……」
そっと、その身を莚に横たえてやり、懸命に背を擦る。
一瞬、咳が止まった。
「が…っ」
「―――っ」
少女の口から迸る、大量の、血。
錆びた匂いを放つそれは、土間を、莚を、どす黒く染める。
一目見ただけで、昨日より圧倒的に量が多いのが、分かった。
「おい…っ」
呼びかけ、はっとする。
半身の、いつもだらりと開いた口から伝う、どす黒い液体。
どろりと、莚に垂れるそれは、やはり、錆びた匂いを放っていた。
見れば、赤黒い胸が苦しげに上下し、喉から奇妙な呼吸音が漏れる。
「は…っ」
少女が小さく、息を吐く。
まるで自らの血で、喉を潤したとでも言うように、咳はぴたりと止んだ。
真っ白な顔に、唇の血が唯一、艶を持って赤い。
ひゅうひゅうと、苦しげな二つの呼吸音が、昏い小屋に響く。
「あと何日もつかねぇ…」
ぼそりと、小さく呟いた三口の老婆を、犬神が睨みつける。
小さく悲鳴を上げて、視線を逸らす老婆はそれ以上、何も言わなかった。
その日以来、少女は、目に見えて、弱っていった。
吐き出す血の量は日に日に増えていき、水さえ、飲むのが辛いと言う。
当然、見世に立てるわけもなく、一日中臥せる様になった。
「役に立たない死に損ないは捨てていく」
そう言った座頭に、牙を剥いて脅しつけ、留め置いたのは犬神だ。
その交換条件として、連日連夜、店に出され、衆目に晒され続けた。
『人の身に獣の耳と尾を持つ、異形のその少年の鋭い牙は骨をも裂く―』
そんな口上が、人から人へ、噂が噂を呼び、昼夜を問わず、見世には人が溢れ、犬神は延々と、好奇と嫌悪を視線の真ん中に、その身を晒し続けた―。
「大丈夫か?」
夜、ようやっと客も引き、見世仕舞いとなった小屋の中、犬神はそっと、隅でボロ布に包まる少女を見舞う。
「犬神こそ…」
掠れた、弱々しい声が、胸に痛い。
伸ばされた手を取れば、はっとするほど、冷たかった。
「俺は…大丈夫」
「うそつき…」
少女の言葉に、漏れるのは苦い笑い。
犬神の、まだ幼い黒目がちの大きな目は、はっきりと隈が縁取り、幼さゆえの柔らかな頬には、やつれが滲む。
強い光を湛えていた瞳には、どこか虚ろな影がちらつき、少年特有の細い手足にも、飛礫の傷が、癒える事はなかった。
「ねぇ逃げて。これ以上無理する必要無いよ」
少女の言葉に、犬神はただ笑って、首を振る。
「どうして…」
「傍にいたい。お前の傍にいたいんだ」
その言葉に、少女の円らな瞳が、驚いたように見開かれた後、今にも泣き出しそうな顔で、笑った。
「ありがとう…」
きゅっと、冷たい手が、力の入らぬ手が、それでも、犬神の手を、精一杯の力で、握り返す。
その夜、少女は生まれて初めて、人の温もりを肌で感じながら、眠りに就いた―。