親指と人差し指で、それぞれ、上顎と下顎を支え、その小さな口に、さらしを巻いた指を、差し込む。
「……」
声も無く血を吐く少女の半身の、その未発達な筋力ゆえ、吐ききることのできぬ血を、掻き出してやる。
どろりとしたそれは、直ぐにさらしを赤黒く染めた。
こうしなければ、己自身の血で、喉が塞がってしまうのだ。
さらしを変え、同じ所作を繰り返す。
そこには、何のためらいも、嫌悪も無かった。
「ごめ…気味が…悪…でしょ…」
ひゅうひゅうと、苦しげな呼吸の狭間から、申し訳なさそうに眉尻を下げる少女に、犬神は首を振って、にこりと屈託のない笑みを向ける。
「全然。気にすることは無いよ」
言いながら、その温かい手は、少女の冷たい手を、包み込む。
「だから、安心して、もう寝ろ」
その声は、ひどく優しくて。
少女の目に、じわり、涙が滲む。
「どうし…」
「なんで…?」
「え?」
涙に震える声に、犬神は聞き逃すまいと、その耳を口元に寄せる。
弱りきった少女の声はもう、そうせねば聞き取ることが出来なかった。
「なんで…傍に…いてく…の…?」
今まで、少女の傍に、こんな風に優しさを、温もりをくれる者など、いなかった。
ましてやそこに、何の見返りも求めぬ者など。
少女が生まれてから今までずっと、知っているのは嫌悪と拒絶、冷たさと痛みだけだった。
「傍にいたいから。それだけだよ」
こんな風に、声を掛けてくれる者など、こんな風に、触れてくれる者など。
こんな風に、笑い掛けてくれる者など、少女は知らなかった。
持たなかった。
与えられなかった。
ましてや、己の半身に触れて来る者など―。
「あり…と…」
掠れた呟きに、そっと握り返してくれる手が、温かい。
眠ってしまうのが怖かった。
このまま目覚めず、もう二度と、犬神と会えなくなるのではと。
そう、少女は死ぬのが、怖かった。
犬神と言う、大切な者を得てしまったから―。
「なぁ、なんて呼べばいい?」
唐突な犬神の言葉に、少女は驚いたように目を見開く。
「なん…で…?なま…なら…二つ…」
「それで呼ぶのは嫌だ」
きっぱりと、強く言い切られ、少女は困ったように眉尻を下げる。
他に呼ばれる名など、無かったから。
「じゃ…犬…神…つけ…て」
「え…?」
今度は犬神が、驚いたように目を見開く。
その様子に、少女が小さく、笑った。
「ね…?」
促す。
犬神は眉根を寄せ、懸命に考えている風であった。
二人の間に落ちる、穏やかな沈黙。
少女の、久しぶりに輝いた瞳が、犬神を見上げる。
暫くしてようやっと、犬神が口を開いた。
「桃…」
「も…も…?」
呟かれた花の名に、少女は小首を傾げる。
犬神は大きく頷き、照れた様に笑った。
「うん。なんか、桃の花に似てる」
「そ…そんな…なん…か…勿体…な…」
「でも、似合うよ」
屈託なく笑いかけられ、少女の頬に、幾日かぶりに、朱が走る。
「あ…ありが…と」
「それから…」
犬神の視線が、少女の左側、その半身に、移る。
「姉ちゃんは小鳥」
「こと…り…?なん…で…?」
「だって花の傍にいるのは小鳥だもの」
「……」
少女の目にまた、涙が滲む。
「き…気に入らなかったかい…?」
慌てたような犬神の声に、少女はふるふると、その細い首を横に振る。
嗚咽の間から、問う。
「姉ちゃ…の分も…かんが…て…くれた…の…?」
「え…?」
泣き濡れた目が、涙を潰して、笑う。
「ありがと…ほ…とに…ありが…」
傍いにいてくれて。
名前をくれて。
姉の存在を、認めてくれて。
―ありがとう―
それは、少女が、桃が生まれて始めて、他人から与えられた『贈り物』だったー。
その夜、犬神はふと、己の手を握る者の気配で、目が覚めた。
妖の目で見れば、桃が、じっと、己の手を握り、こちらを見つめている。
「桃…?どうした…?」
苦しいのかと、そっと問いかければ、闇の中、桃が微笑を零す。
それはまるで、小さな桃の花がほころぶ様な、愛らしい笑顔。
「今日…ね…名前…くれて…ありがと…」
「…うん」
ひどく素直で、純粋な感謝の言葉に、犬神は照れたように、笑みを返す。
「一緒…いてくれ…て…んとに…嬉…った…」
「うん」
ぽつりぽつりと零される桃の声が、優しく、闇に溶ける。
「初めて…だ…ったから…」
「うん」
桃はゆっくりと目を閉じ、大きく息を吸う。
きゅっと、犬神の手を握る手に、ほんの僅か、入らぬ力が、込められる。
「桃…?」
微かな不安が胸をよぎり、呼びかけたその時。
「…っぐ…っ」
犬神の目の前が、真っ赤に染まる。
「桃―っ」
咄嗟に起き上がり、抱き起こす。
それは、今までの比にならないほどの、吐血量で。
白く、薄汚れていた桃の着物は真紅に染まり、抱き起こした犬神の袖をも、赤く染めた。
桃の、小さな体が、痙攣に揺れる。
「あ…が…と…」
震える、ほとんど吐息のような声で、桃は尚も、言葉を綴る。
「うれし…った…」
ごぼりと、また、血が吐き出される。
「桃…っ」
握った手が、抱上げた身が、恐ろしいほどに、急速に冷たくなっていく。
「や…嫌だ…桃…っ」
ぽたりぽたりと、犬神の目から零れる涙が、桃の、小鳥の頬を濡らし、伝い落ちる。
「桃…っ」
「…かない…で…」
桃の、弱く震える指が、犬神の頬をなぞる。
その手を強く握り締め、口から零れるのは、悲鳴にも似た、哀願。
「死ぬな…っ」
そう、犬神は、心から、桃の生を、望んでいた。
最初はただ、その死を見守ろうと、思っていただけなのに。
いつしか、決して失いたくない、大切な存在へと、変化していた。
それは、桃も同じこと。
けれど現実は、痛いほどに残酷で。
「ありがとう。犬神」
それは、ひどくはっきりした声。
まるで、初めて会った頃の様な。
それは、桃の、最後の気力を振り絞った声。
最後に、伝えたい、強い想いを込めた、声。
向けられたのは、ひどく愛らしく、まるで小さな桃の花がほころぶ様な、笑顔。
ひどく幸福そうな、嬉しそうな、笑顔。
そして、哀しい程に、透き通った笑顔だった―。
「桃…?」
大きく一つ、息を吐いて、桃のその、黒目がちな大きな瞳が、犬神を映したまま、閉じられる。
「桃?」
呼びかけに、応える声は、無い。
ずるりと、犬神の手から、桃の、小さな小さな細い手が、落ちた―。
「桃―――っ」
それは、悲痛な咆哮。
言葉になど鳴らぬ、悲鳴。
ついさっきまで、笑って話しをしていたのに。
ついさっきまで、己の手を握ってくれていたのに。
その全てが、もう、失われてしまった。
その全てが、もう、遠い遠い、決して手の届かない、過去のことになってしまった。
微かな笑みを刷いた、その小さな、あまりにも小さな亡骸を抱いて、犬神は一人、闇に泣いた―。
「退け」
それは低く、何の感情も滲ませない声だった。
闇に光る、妖の目。
その光は強く、目の前の者を射抜く。
「…っ」
立ちふさがった座頭は、けれど黙って、道を開ける。
誰も、止める者などいなかった。
犬神は一人、その背に桃を背負い、小屋を出る。
此処に居れば、役に立たぬ亡骸など、河原にでも打ち捨てられるのが、目に見えていたから。
夜の闇の中、犬神はただ、走り続けた。
その背に、冷たくなった友を背負って。
あれ程までに、哀しい程に、軽かった、その小さな身体は、生を失った今、ずしりと重い。
その重さが、背中の冷たさが、桃の死を、失った存在を、犬神の胸に突き立てる。
傷ついた足は痛みを訴え、血を流したが、立ち止まる気にはなれず。
夜が明ける頃、辿り着いたのは人里は慣れた森の奥底。
まるで、初めて会ったあの森のような。
そこに一本の、桃の木を見つけ、夜目にも愛らしく咲くその花に、犬神はようやっと、足を止めた。
「…っは…っ」
己の呼吸音が、耳に煩い。
その、生きる証が、疎ましかった。
―桃は死んだのに―
そう、桃は死んだ。
犬神の腕の中で、冷たくなった。
ぎりっと、音がする程に、噛み締めた唇に、血が滲む。
その錆びた鉄の匂いが、生まれる痛みが、疎ましい。
「……」
そっと、桃の身を、近くの木の根元に降ろすと、犬神は桃の木の根元、その土に、己の爪を突き立てた。
桃を、葬ってやる為に。
安らかに、眠らせてやる為に。
もう、見世物になることも、飛礫や罵声を浴びることもなく、ただ幸福な夢を、ただ静かに、見れるように。
地を土を、ただひたすらに、掻く。
たった一人、森の闇の中、友の為に。
初めて出来た、大切な友の為に。
失った、友の為に。
固い石にぶつかり、爪が剥れる。
滴る血が、土に滲む。
構うものかと、思った。
この程度の痛みなど。
自嘲の笑みが、犬神の唇に、乗る。
「丁度良い。これで獣も来なくなるさ」
犬神である己の血が、きっと桃を守る。
犬神がやっと、手を止めた頃、その小さな両の手は傷つき、泥と血に塗れていた。
「…」
そっと、桃の身体を抱上げ、己の作った墓の中、横たえる。
「おやすみ…桃…」
土をかける犬神の頬に、また、涙が伝う。
もっと名前を呼びたかった。
もっと笑顔が見たかった。
もっと話がしたかった。
もっと…傍にいたかった―。
その全てが、今はもう何一つ、叶わぬ夢で。
「……?」
最後の一握りの土をかけ終わった犬神の目の前を、ふわり、一羽の蝶が、舞った。
直ぐに飛び去ると思ったそれは、いつまでも、犬神の傍を離れず、ただ、闇を、舞う。
「な…に…?」
涙に濡れた頬を、蝶の羽が、ひらり、掠める。
まるで、手を伸ばす桃のそれのように。
良く見れば、常の蝶とは違う。
夜明け前とはいえ、ここは森の中。
真闇に近い闇の中、その姿はけれどはっきり、犬神の目に映る。
妖の目だからではない。
蝶自身が、微かに青く、光を放っているのだ。
「も…も…?」
呼びかければ、応えるように、くるりと一周、犬神の周りを、舞う。
―泣かないで―
そんな声が、聞こえた気がした。
「桃―――っ」
咄嗟に手を伸ばせば、けれどふわりと、舞い上がってしまう。
「待って…桃っ」
高く高く、犬神の頭上を、円を描いて舞い上がる蝶は、やがて溶ける様に、闇に消えた。
―ありがとう犬神―
そんな、優しい桃の声が、夜明けの森の中、犬神の意識に、響いた気がした―。