夜の帳が降り始めた頃、松之助と談笑していた一太郎の部屋の障子が、からりと開いた。
「若だんな、風呂が空いたんでそろそろ入ってくださいな」
連れ立って入ってきた手代二人の言葉に素直に頷いて立ち上がる。
「じゃああたしはそろそろ戻りますね」
そう言って部屋を出ようとする松之助の袂を、一太郎はくいと引く。
「若だんな?」
皆が訝しげに視線を寄せると、一太郎はにこりと笑って、口を開いた。
「兄さん、今日は一緒に入ろうよ」
その言葉に一瞬、驚いたような表情を見せた松之助は、それでもにこにこと笑いながら強請る義弟には抗えず、
頷いた。
「じゃあ行って来るよ」
ひどく機嫌が良さそうな微笑を残して、松之助と二人、連れ立って出て行く背を見送る手代二人。
今のうちにと寝間の支度をする佐助に、仁吉は思い出したように声を掛けた。
「ということは今日はあたしとあんたで入ることになるね」
「―…っ」
仁吉の言葉に、佐助は一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、直ぐに平常心を取り戻したのか、
何食わぬ顔で「そうだな」と一言頷いた。
けれど、一瞬の表情を、見逃す仁吉ではない。
「久しぶりだねぇ」
更に揶揄するように言うと、今度こそ佐助の顔が苦々しげに歪んだ。
「うるさいよ」
脳裏に、昔、まだこの長崎屋に来たばかりの出来事が思い出される。
あの頃は、まだ一太郎も小さくて、祖父の伊三郎と風呂に入っていたから、「奉公人は二人一組で風呂に入る」
という長崎屋の決まりごとに従い、当時まだ小僧だった仁吉と佐助は、二人で風呂に入っていたのだ―。
「風呂ん中で騒ぐんじゃないよ」
先に湯を浴びた先輩格にあたる手代に言われ、仁吉と佐助は内心『阿呆か』と思いつつ、表面上はにこやかに、
「はい」と頷く。
入れ違いに、脱衣場に入ると、さっさと帯を解く。
外気に曝された肌が、さっと粟立った。
石造りの洗い場は、ついさっきまで人が入っていたにも拘らず、ひんやりと冷たく、毎回思わず身を竦めてしまう。
お互い、さっと手桶に救った湯を浴びて、体を洗い始める。
仁吉は先に手早く体を洗い終えてしまうと、冷たく寒い洗い場から、さっさと湯船に浸かった。
体を包む心地よい暖かさに、ほっと息をつく。
湯気越しに見遣る相方は、体を洗い終えると、こちらには来ずに、もう、上がろうとしていた。
毎回毎回烏の行水並みの素早さで、決して湯船には浸からず上がってしまう佐助を、不思議に思っていた仁吉。
呼び止め、振り返った顔に、疑問を投げかけてみる。
「いつも思ってたんだけどさぁ。お前もうちょっとゆっくりおしよ。そんなんじゃ体だって温もらないだろう?」
「あたしはこれで良いんだよ」
どこか頑なとさえ思える口ぶりで言うと、そのまま仁吉を半ば無視するように出て行こうとする。
その態度が、どこか余裕のないように、仁吉の目には映った。
一瞬、逡巡した後に浮かんだ、ある考えに、仁吉はその子供の顔に、およそ子供らしからぬ笑みを乗せる。
「・・・っわっ?」
身を乗り出し、佐助の首根っこを引っつかんで湯船に引きずり落とす。
「―・・・っ」
派手な水音をさせ頭から湯に落ちた佐助は、仁吉が覗き込もうとする間もなく、再び派手な水音をさせて湯船から飛び出した。
その余りにも必死な形相に、思わず目を見開く。
洗い場に両の膝を着いて荒く肩で息をする佐助に、仁吉の中で浮かんだ考えが、確信に変わる。
途端、込み上げて来る笑い。
「おま・・・っお前・・・み、水が・・・水が怖かったんだねぇ・・・っ」
息も絶え絶えと、腹を抱えて笑いながら揶揄してくる仁吉に、佐助は牙を剥くも、湯船に浸かられたままでは、
また引きずり込まれては敵わないので近づくことも出来ない。
その様に、更に仁吉の大笑いはいよいよ止まらなくなる。
佐助はぐっと、鼻に皺を寄せて唸った。
その時、不意にがらりと脱衣所の戸が開く気配がして、怒声が響く。
「一体いつまで入ってるんだいっ!風呂場で騒ぐんじゃないといったろうっ!」
先程の手代に怒鳴られて、ようやく二人は、風呂から上がった。
部屋に戻ってからも中々笑うのをやめない仁吉に、佐助は酷く苛立った夜を過ごしたのだった―。
「まぁ犬は水が嫌いなもんさね。もう湯船に引きずり落としたりしないから安心おしよ」
ケラケラと笑いながら揶揄する仁吉に、あの日のように、牙を剥く。
「上がったよ」
鼻に皺を寄せて唸っていたら、からりと障子が開いて、一太郎と松之助が顔を覗かせた。
「あたしが寝間のお世話をしますんで、どうぞ入ってきてください」
一太郎の夜着を手に微笑する松之助に、仁吉は白々しいほどの笑顔で頷いて、相方の肩を叩く。
「じゃあお言葉に甘えて、入らせてもらおうかねぇ?佐助」
佐助は肩に置かれた手を邪険に振り払うと、一太郎と松之助にだけ視線を向けて、
「それじゃああたしらはこれで」
と、さっさと先に部屋を出てしまう。
「仁吉や、佐助は何であんなに怒ってるんだい?お前また何か・・・」
呆れたように言葉を途切らせる一太郎に、ニヤリと口角を吊り上げることで答える。
「さぁ?何ででしょうねぇ。・・・じゃ、あたしも失礼しますよ」
ぱたんと静かに閉めた障子の向こうで、呆れたように溜息を付く一太郎と、苦笑する松之助の気配があった。
その夜、随分派手な水音と、酷く大きな佐助の怒声が、風呂に響いたという―。