一太郎の溜息が、離れの寝間に溶け消える。
それを聞き止めた佐助が、心配そうな眼差しを送った。
「若だんな、どうかしたんで?」
仁吉の問いかけに、一太郎は胡乱げな視線を送る。
その視線を受け、器用に片眉を上げて、己の額に手を置いてくる仁吉を振り払う。
「私はなんともないよ。それよりお前たち…何かあったのかい?」
「あぁ。そのことでしたら…」
「何にもありませんよ若だんな」
仁吉の応えに、被せるようにして佐助が否定する。
余計なことを言うなと、仁吉を睨む目が、鋭かった。
仁吉の口角が、揶揄するように、吊りあがる。
一層、佐助の目元が険しくなった。
朝からずっと、この剣呑な空気の間に挟まれていた一太郎は、もう一度、今度は気付かれぬよう、溜息を吐く。
今日は朝方からずっと、佐助の機嫌が宜しくない。
佐助は昨夜、随分無理を強いられた所為で、変に力が入っていたからか、身体が重く、痛みを孕んでいた。
けれど、声を殺そうと、意識すればする程に、仁吉を強く感じてしまい、常より高ぶったのも事実で。
そのことが一層、佐助の機嫌を悪くさせていた。
「何にも無いようには見えないけどねぇ…」
呟かれた言葉に、佐助がまた、仁吉を睨む。
大事の若だんなに心労を掛けるのはお前の所為だと、視線に込めて。
「さぁ若だんな、もう遅いですから…」
詮索はやめて寝ろと、促す佐助の動きが、一瞬、止まる。
身体に走った痛みに、顔をしかめるのに、一太郎の表情が曇った。
「佐助…?」
「何でもありませんよ」
怪訝そうに見上げてくる一太郎に、返すのは笑顔。
「昨日変に強情張って身体に力が入ったままだったからねぇ。そりゃあ痛いだろうよ」
「仁吉…っ!」
さらりと、口角を吊り上げて笑い告げる仁吉。
気色ばんだ佐助の、詰る声が、離れに響く。
「簾は音なんて防ぎませんからね」
佐助の声など、意にも介さぬのか、一太郎に、相変わらずさらりと告げる仁吉に、一太郎が呆れたような視線を送る。
「あれ?犬神、お前さん結界張らなかったのかい?」
唐突に響いた声に、皆の視線が集まる。
屏風の中から屏風のぞきが、顔を覗かせていた。
「結界…?」
佐助の唇から、零れるように漏れる呟き。
すっかり忘れていた事実に、思考が固まる。
屏風のぞきが言うように、結界さえ張れば、何の問題も無かったのだ。
一瞬、沈黙の落ちた離れに、りんと、夏虫の涼やかな声が響く。
「屏風のぞき」
仁吉が、余計なことは言うなと、睨み付ける。
けれど、それには気付かぬのか、屏風のぞきは構わず、口を開く。
「結界張りゃあ、声なんざ関係ないんだろう?」
「違うのかい?」と、小首を傾げる小妖に、仁吉が腰を上げた。
しなやかに速い身のこなしで、屏風に近づくと、その派手な胸倉引っ掴む。
「今日は暑いねぇ。お前さんも井戸の中のほうが涼しいだろう」
「は?ちょ…っあたしが何したって言うんだいっ?」
「うるさい」
剣呑な笑みを向けられ、屏風のぞきの悲痛な悲鳴が、響く。
引きずり出されようとするのを、一太郎が止めようと手を伸ばしたとき。
「仁吉…お前気付いて…?」
掛けられた佐助の声が、低い。
「無駄に煽ったお前が悪いよ」
仁吉は屏風のぞきから手を離すと、開き直ったかのように平然と言ってのけた。
「あたしがいつ…っ」
「そりゃあお前、目の前で前を開けた上に、足まで開かれちゃねぇ…」
「ただ涼んでただけだろうがっ」
にやりと、口角を吊り上げて言う仁吉に、佐助の怒声が重なる。
一太郎が、呆れたような声を出して仁吉を咎めた。
「確かに行儀がいいとは言えないけど…そんな…」
「じゃあ若だんなは松之助さんが同じ事をしていても平気だと?」
仁吉の問いに、一太郎は一瞬、逡巡してから、結局、何も言わなくなってしまう。
どうやら仁吉と同じ考えに至ったようで。
仁吉がそれみたことかと、勝ち誇ったような笑みを、佐助に向けた。
「………」
その笑みに、今度は怒鳴ることもなく、佐助は無言で部屋を出てしまった。
「仁吉…お前ね…」
疲れたような溜息が、一太郎から零れる。
それを笑顔で躱して、寝かしつけると、仁吉は自分も部屋を辞そうと、腰を上げた。
一太郎の困ったような溜息が、また、背中で零れる。
と、不意に温い風が吹き込んでくる、簾に、人影か落ちた。
「退いとくれ」
そこにいたのは己の布団を抱えた佐助。
そのまま、仁吉を押しのけるように部屋に入ると、驚いたように自分を見上げる一太郎の隣に、きっちりと布団を延べ始める。
その横顔は、憮然としていて。
「今日から数日、こちらで寝ます」
「佐助…っ?」
頓狂な声が、二人から上がる。
一太郎が、布団の上に起き上がり、引き攣った笑みを向けた。
「えぇと…あたしは調子も良いし…夜通し看てもらわなくても今は大丈夫なんだけど…」
「いけませんか?」
必要も無いが、断る理由も、一太郎には見つけられない。
仁吉が、気色ばんだ声を上げた。
「佐助?若だんなのご迷惑だろう…」
「あぁそうだね。もう夜も遅い。仁吉、さっさと戻って寝なよ。若だんなが休めないだろう」
応える声は、棘が滲み出ていて。
佐助はそのまま仁吉を追い立て、廊下に出してしまう。
途端、部屋の周りを、包む、微かな違和感。
己の目の前に張られたそれに、仁吉がいよいよ、焦ったように簾の奥に声を掛けた。
「ちょ…佐助、どういうつもりだいっ」
「この結界破ったら数日じゃあ済まさないからね。…早く寝な」
言いながら、これ以上仁吉の話を聞く気はないのか、部屋の灯りが落とされてしまう。
後には立ち尽くす仁吉と、生温い夏の夜風だけが残っていた―。