花曇りの空の下、頼まれた荷運びも終えた、その身は軽い。
 行きかう人も皆、どこか浮き足立った様。
 不意に目の前を横切った一枚の薄紅に、顔を上げれば満開の桜。
 神社の境内から通りまでその見事なまでの枝振りを伸ばし、咲き誇り、今が極みと吹き上げる風に薄紅の花弁を揺らす。
 思わず、足を止め、息を呑む。
 もうそんな季節かと、感慨に耽ったときだった。

「佐助兄ちゃんっ」

 どんっと、唐突に背中に感じた軽い衝撃。
 身を捩って振り返れば、己の腰にぎゅっとしがみ付く、見知った幼女の姿があった。
 その小さな肩が、小刻みに震える。

「久しぶりだねぇ。どうした?」

 そっと、頭に手を置いて尋ねてやると、涙に濡れた顔を上げた幼女は、しゃくり上げるばかり。 
 
「…っひっく…」

 言いたい事は山のようにありすぎて、全部嗚咽に消えてしまうのか、直ぐにまた、顔を押し付けてきた。
 じわりと、佐助の着物の布地に涙が滲みその色を濃くする。

「困ったねぇ。泣いてちゃあ分からないだろう?」

 苦笑と共に屈み込むと、縋り付くその小さな体をふわりと抱き上げる。
 視線を合わせると、泣き濡れた目が、きょとんと己を見つめていた。
 ぽつりと、小さな声が零れる。

「さくらが…」
「桜?」

 幼女の言葉に小首を傾げたとき、神社の境内の方から、見知った小さな影がいくつもまろび出てきた。

「佐助兄ちゃんっ」
「おぉおぉ皆勢揃いじゃないか」

 一瞬で出来た己を囲む小さな輪に、屈託の無い笑みを向ける。
 皆、廻船問屋の忙しい仕事の合間にしか会えぬ佐助に、久方ぶりに会えひどく嬉しいらしい。
 興奮と憧憬の色がありありと滲んだ目で、佐助を取り囲む。
 その小さな目が、唯一、抱き上げてもらっている幼女を羨望の眼差しで見上げていることに気付いた、佐助は、中心格の一番年かさの少年を掴まえて、訪ねる。

「どうしてこの子が泣いてたんだい?」

 投げかけられた問に、少年が指し示すのは頭上の桜。

「桜…?」

 口から零れるのは、先程と同じ疑問符。
 少年が頷くと、今度は傍らの少女が口を開いた。

「桜の花びらがね、地面に着くまでに掴まえられたら、願い事が叶うんだって」

 少女の言葉を、今度は別の少年が継ぐ。

「それで、みんなで桜の花びらを掴まえてたんだ」
「でも」

 また、別の声。
 佐助は身を捩って、声の主に視線を合わせてやる。

「そいつだけ、一枚も捕まえられなかったんだ」
「それで、泣いていたのかい?」

 佐助の声に、皆が頷く。
 腕の中の幼女の目が、思い出したように潤みだす。
 泣くまいとぎゅっと下唇を噛み締める、その強張る小さな背を、あやすように優しく叩きながら、佐助は頭上の桜を仰ぎ見る。
 頬を撫でる風が、今日は強い。
 春の嵐とも呼べそうなそれに、今が盛りの桜花は、はらはらと、その花弁を遊ばせていた。
 視線をさげれば、足元には転々と薄紅。
 ゆらりふわりと舞い落ちるその動きはひどく不規則で、確かに幼子では、捕らえるのは難しそうだ。

「…」

 皆の視線が、佐助に集まる。
 抱きかかえられた幼女も、不安げに佐助を見つめた。
 すぐ傍を通り過ぎる物売りの、のんびりとした声が響く。
 頭上の桜の細枝に止まったメジロが、一声啼いて、飛び立つ。
 反動で揺れる枝からまた一枚、薄紅が散った。
 と、不意に佐助は、目の前を横切り、舞い落ちるそれを、その掌に捕らえる。
 自分を見つめるその視線に、安心させるように笑いかけ、そっと結んだ手に唇を寄せ、目を閉じる。
 祈りにも似たその所作を、幼子達はじっと見守った。

「……の…に…」

 微かに零れたその呟きに、腕の中の幼女の目が,驚いたように見開かれる。
 程なくして、目を開けた佐助と目が合うと、興奮して赤くなった頬のまま、何度も『ありがとう』を繰り返した。
 佐助は笑って、その小さな頭を撫でてやりながら、手の中の薄紅を幼女に差し出す。

「いいの…?」
「あぁ」

 赤い頬を更に赤くして、幼女は大事そうに小さな白い両の手に、薄紅を包み込む。

「何?佐助兄ちゃんは何をお願いしたの?」
「どうしたの?」

 口々に投げかけられる疑問符に、降ろしてもらった幼女は、ぎゅっと両の手を固く結ぶばかりで答えない。

「ねぇ佐助兄ちゃんは何をお願いしたのっ?」
 
 今度は自分に向けられた疑問符に、佐助は苦笑して、見上げ、問いかける少年の頭をぐしゃりと掻き乱す。

「そんなの。口にしたら叶わないだろう?」

 その口元に浮かぶのは、まるで子供のそれのような悪戯笑い。
 納得がいかないとばかりにむすくたれる幼子達に、また一つ漏れる苦笑。

「さぁほら、皆で遊んでおいで。あたしはまだ仕事があるから」

 そう言って、小さな背中たちを送り出す。
 皆、中々離れようとはしなかったが、『次の機会』を約束すると、

「きっとだよっ」

 と、ようやっと境内の方へと駆け出して行った。
 手を振りながら、その背を見送る佐助の目は、ひどく優しい。
 外での合い間に、ふと訪れるこのような一時が、佐助は決して嫌いではなかった。
 知らず、目元も和む。

「何をしたんだい?」
「ぅわっ」

 不意に背後から掛けられた声に、驚いて振り返ると、ちょうど真後ろに仁吉が立っていた。
 その手に持たれた巾着から察するに、掛取りの最中なのだろう。

「相変わらずすごい量だねぇ」

 袂から覗く、一見しただけで分かる大量の付文。
 揶揄よりも、いっそ感心の色が強い声に、仁吉はうんざりと眉を顰めた。
 その肩にも、薄紅は舞い落ち、はらりと滑る。

「まぁ風呂の焚き付けには事欠かないね。…それより、さっきのアレ。どうやったんだい?」

 随分な言葉に苦笑しながら、佐助は口を開く。

「見てたんなら声ぐらい掛けとくれよ。…その花びら取ってみな」

 言いながら、指し示すのは頭の上からふわりと揺れ落ちる一枚の花弁。

「は?」
「早く」

 促され、仁吉は訳の分からぬまま、その白い掌に器用に薄紅を捕まえる。
 簡単に捉えたそれを、結んだ手の中に収めたまま、視線だけでどういうことだと問いかけてくる仁吉。 

「ほら、願掛けて」
「……」

 ふざけているのかと言いたげに目を眇める仁吉に、佐助は真剣な眼差しで無言で促す。
 いよいよ戸惑いの色を浮かべながら、仁吉はそれでも、先程の佐助と同じように、結んだ手に唇を寄せ、目を閉じる。
 一際強い、一陣の風が吹いて、上の薄紅も、下の薄紅も巻き上げる。
 土ぼこりも混じったそれに、佐助は思わず眉を顰めたが、仁吉は気にも留めるそぶりも見せない。 

「で?」

 程なくして目を開いた仁吉に、佐助は一つ笑いを零して、自分も同じ所作を繰り返す。

「仁吉の願い事が叶いますように」
 
 唯一つ違うのは、今度は聞えるように、少し大きな声音で。
 目を開けると、仁吉が呆れた様な顔で己を見上げていた。

「それかい?」
「あぁ」
  
 同じ事を、あの幼女の時にもしてやったのだ。
 屈託無く笑う佐助に、仁吉はつられたように微笑した。

「あたしの願い事が分かるかい?」
「そりゃあ。お前さんのことだもの」

 佐助の言葉に、仁吉が声を立てて笑った。

「違いないねぇ」

 己達の望むことなど、一つしかない。

―若だんなが丈夫になりますように―

 花曇りの空の下、二人の笑い声が響く。

「さて…お前さんもう掛取りは?」
「終わったよ」

 頷いて、大事な若だんなを一人にしてはおけないと、急ぎ踵返す。
 足早に並んで歩く二人の口元には、同じ色の笑みが浮かんでいた―。