ほんの少し歩いただけなのに、足の指に食い込む鼻緒が痛い。
 先に走ったときなどは、擦り剥けてしまった足指に、後で仁吉の薬を貰う羽目になってしまった。
 いつもなら、影から影へ、ふうわりと飛んでいけるのに。
 人のふりをするのも大変だと、鈴彦姫は小さく、溜息を吐いた。
 それでも、掌に鳴家の真似をして見つけた銭を握り締めて。
 鈴彦姫は、慣れぬ人ごみを、足早に急いだ。
 先と違って、獺も野寺坊もいない。
 皆は、屏風のぞきの言葉に納得していたようだけれど。
 勿論あの夜は、鈴彦姫だって、納得していたのだけれど。
 栄吉の話を聞いていた若だんなが、ぽつりと、「兄さんはどうしているのかしら」と零したのを、聞いてしまったから。
 ふと、思いついたのだ。
 仁吉が栄吉の修行先で菓子を求めたように。
 自分は松之助の小間物問屋で、松之助が選んだ品を求めれば、一太郎は喜んでくれるのではないか。
 そうして、松之助の様子を、自分が、一太郎に伝えればいい。
 あんなに寂しげに呟いていたのだもの。
 きっと喜んでくれると、鈴彦姫はその笑顔を思い描いて、小さく、笑みを零した。

「あぁ、ここだわ」

 先に聞いたとおりの場所に立つ店先では、以前、長崎屋で見かけたお咲が、客らしい娘数人の相手をしている。
 すぐに鈴彦姫に気付いたお咲が、にこりと、愛想の良い笑みを向けてきてくれたから。
 ほんの少し、緊張の解れる思いのした鈴彦姫は、つられ、笑みを零しながら、問いかけた。
 
「あの、店主さんは…」
「…?主人に御用ですか?」

 見かけない顔だからか、不思議そうに小首を傾げられ、慌てて、言葉を継ぐ。

「あ、あの…長崎屋の…」
「あぁ、長崎屋さんの…。ちょっと待っててくださいね」

 皆まで言う前に、察したのか、お咲は笑みを残して、店奥に引っ込んで行った。
 松之助を呼ぶ声が、微かに聞こえる。
 親しげな呼び名に、夫婦仲が上手くいっているのが見て取れて、若だんなに報告する『良いこと』の一つだと、胸に留め置く。
 視線を巡らせれば、娘達のほかにも、何人か足を止める人がいる。
 長崎屋より遥かに小さい、こじんまりとした店だが、通りに面しているし、日当たりも良い。
 綺麗に掃き清められている店表に、整然と並んでいる品も、物がいいように思う。
 奉公人はまだ、いないようだけれど、お店も上手くいっているようだと、鈴彦姫は我が事のように安堵した。

「あの娘さんよ」

 お咲の声に、顔を上げれば、店奥から戻ったお咲の後ろ、松之助が顔を出していて、鈴彦姫は慌てて、小さく、頭を下げる。

「あたしに何か?」

 やはり、見ない顔だと思われたのか。
 不思議そうに小首を傾げる松之助は、元気そうだ。
 これは一等の『良いこと』だと、鈴彦姫は笑い顔のまま、口を開く。

「あの、私、長崎屋の若だんなに、贈り物をしたいんです。…若だんなは、寝付いてばかりで、何処にもいけなくて退屈だといつも零されるから…」

 その言葉に、松之助は驚いた様に目を見開いた後、ふわり、ひどく優しく、微笑って、頷いた。

「わかりました。それで、どのようなものを?」
―あ…松之助さんって、笑い方が若だんなに似てるんだ…―

 やはり兄弟なのだなと、ぼんやりと思い、その何より近い、血と言う距離の近さが、ほんの少し、羨ましい心地がした。
 
「お嬢さん?」
 
 少しぼんやりしすぎたか、怪訝そうに覗き込まれ、慌てて、思考を中断する。
 そうだ、今はそんなことを考えている場合ではない。

「あの、根付…」
「根付?あぁ、それはいいですね。いつでも持っていられる」

 にこりと微笑まれ、ほっと安堵する。
 肯定され、やはり、己の思いつきは正しかったのだと、嬉しい心地がした。
 客にこんな心地をさせるのだから、きっと、松之助には商人の才があるに違いない。
 
―流石若だんなのお義兄さんだわ―

 一人うんうんと頷いて、松之助が並べてくれる根付に、目を落とす。
 どれも可愛らしいものばかりで、決められないと困り顔で笑えば、松之助がこれはどうかと、一つ、手にとってくれた。
 途端。
 りんと、軽やかな音が、なる。
 手の中に落とされたのは、細かな細工が施された、鈴の根付だった。
 振れば、りんと、優しく心地良い音色が、辺りに響く。
 決して煩いものではないそれなら、寝付いた時の慰めにもなるだろうと、松之助が言う。
 鈴の付喪神である己の音色に比べれば、まだまだ音に深みはないけれど。
 それでも、その音色はひどく、鈴彦姫を惹きつけた。
 何より、鈴と言うのが良い。 
 己の顔に、自然、満面の笑みが、広がるのが分かる。

「これ、くださいな」
「ありがとうございます」
 
 りん。と、根付を差し出せば、松之助が笑って、頷いてくれた。




 鈴彦姫の足取りは、今度は軽かった。
 鼻緒も、もう気にならない。
 手には松之助が包んでくれた根付の入った小箱と、一通の書付。
 「お客さんに頼むものではないんですが…」と、苦笑しながら届けてくれないかと差し出されたそれを、若だんなはきっと喜ぶだろうからと、快く請け負った。
 
「若だんなに差し上げるものが二つになったわ」

 その上、だくさんの『良いこと』を報告できる。
 嬉しさに、また、笑みが零れた。

「若だんな」

 ひょこり、覗いた離れのいつのもの部屋では、丁度一太郎が、屏風のぞきと碁を打っていて。
 鈴彦姫の、いつもと違う姿に、軽く目を見開きながら、笑って出迎えてくれた。

「やぁ、いらっしゃい鈴彦姫。丁度良かった、羊羹があるよ、食べるかい?」
「それより若だんな。今日は良いことをたくさん、たくさん持ってきたんですよぅ」

 勢い込んで言えば、一太郎が小さく、小首を傾げる。

「良いこと?さて、何かしら」

 ふわり、ひどく優しい微笑に促され、ああやっぱり似ているなと、ぼんやりと思う。

「これ、若だんなに」

 差し出すのは、根付の入った小箱。
 中で揺れたのか、りんと、くぐもった音が、微かに響いた。

「わぁ、根付じゃあないか、どうしたの?」

 一太郎の背中から、覗き込んでいた屏風のぞきが、抜け駆けだと言いたげに睨みつけてくるのには構わずに。
 一太郎にのみ、視線を合わせて、告げる。

「松之助さんのお店で、買ってきたんです」

 少し胸を反らしながら言えば、一太郎が大きく、目を見開く。
 ほんの僅か、息を詰める気配がした。

「……兄さんの…?」
「えぇ。松之助さんに、選んでもらったんですよ。それなら、寝付いたときでも慰めになるだろうからって」

 一太郎の視線が、手の中の小箱に、落ちる。
 心なしか震える指が、根付を掬う。
 りんと、優しく心地良い音色が、部屋に響いた。

「兄さんが、選んでくれたの…?」
「そうですよ。松之助さんが、選んでくれたんです。お元気そうでしたよぅ」

 どこか呆然とした風に、根付を見つめる一太郎に、そんなに驚くことだろうかと、内心、小首を傾げつつ、鈴彦姫は、『良いこと』の報告を始める。
 
「お店も順調そうでしたし、お咲さんとも、上手くいってるようでした」

 お咲の名を出した途端、きゅっと、ほんの一瞬、一太郎の手指が、握りこまれたことには、鈴彦姫も、屏風のぞきも、気付かない。

「お客さんもちゃんと入ってるようですし…品だって、ね?良いでしょう?」

 覗き込めば、一太郎ははっとしたように顔を上げ、少し慌てた風に、頷いてくれる。
 どこか常と様子が違うような心地に、小首を傾げつつ、取り出すのは例の書付。
 
「あ、そうそう。これ、松之助さんから預かってきましたよ」
「兄さんから…?」

 恐る恐ると言った風に、伸ばされる指先。
 けれど、はらり、文を開く一太郎の目は、怖いくらいの色を帯びて。
 どうしたのだろうと、思うけれど。
 何となく、問いかけるのが憚られるような気がして。
 囲碁を打っていたくらいだから、調子は良い筈なのにと、考えこんでいると、不意に、一太郎が口を開いた。

「あはは。兄さん、鈴彦姫を私と恋仲のお嬢さんだと、勘違いしているよ」

 言葉は、笑っている筈なのに。
 微かに、上擦り、震えた声に、顔を上げれば、今にも泣き出しそうな顔で、笑う一太郎と、目が合った。

「そんな人、いないのにねぇ。…私が愛しいと想う人なんて、いないのにねぇ…」
「若だんな?」

 何度も、繰り返す声は、痛々しい程、ひどく切ない色を帯びていて。
 この贈り物は、気に入らなかったかと問えば、ふるふると、何度も首を左右に打ち振られる。
 
「そんなことないよ。…すごく、すごく嬉しいよ。…ありがとう、鈴彦姫」

 そう言って笑う一太郎の頬を、潰れた涙が一粒、流れ落ちた。
 りん。
 優しく、心地良い音色が、部屋に響く。
 言ったきり、俯いて。
 その小さな根付と、たった一枚の紙切れを、いつまでも握り締める一太郎に、鈴彦姫も屏風のぞきも、しばらく声を掛けることができなかった―。