口に流し込まれる薬湯の苦味と、額に置かれる濡れた手拭の冷たい感触。
 声を掛けられているのは、ぼんやりと分かるけれど。
 応えることは、出来なくて。
 過ぎる時の感覚も、良く分からない。
 ただ苦しく、辛かった。
 
「若だんな…」

 それは、よく知っている声だったけれど。
 やはり、応えることは出来なくて。
 感覚の無い手が、何かに触れた気がした。
 けれど、確かめることすら出来ぬままに、気配は遠ざかって。
 呼び止めたいと、思ったけれど。
 また、意識は熱に浮かされ、その思いすら、ぼやけて消えた。


 
 
 覚醒した意識に、濁りは無くて。
 随分と軽く感じる身体に、ようやっと、熱が引いたのを知る。
 ほっと、小さく、息を吐く。
 乾いた唇から漏れたそれには、もう、あの不快な熱は無かった。
 ふと、手の中に違和感を感じて。
 ずっと握り締めていたのだろう、強張る指をそろそろと開けば、そこにあったのは見覚えの無い御守。

「仁吉…これは…」
「あぁ若だんな…っ気付かれましたか?」

 久しぶりに口を利いたからか、舌がもつれる。
 声も随分、掠れていた。
 それでも、仁吉には届いたのか、返される安堵の表情に、また、心配を掛けた罪悪感がちらり、胸を過ぎった。
 
「今、重湯を用意しますからね」
「若だんな、その前に薬を」

 強く安堵の色を滲ませた微笑を残して、佐助が席を立つ。
 すぐさま差し出された薬湯に、その凄みのある色に、寸の間、息を呑む。
 
「仁吉、あの…」

 開いた手の中にある、御守りを見せようとしたけれど。
 代わりに、苦味のある匂いを放つ茶碗を、手渡されてしまう。
 仕方なく飲み干しながら、思ったとおりの味に、思わず呻いた。

「食べれますか?」

 いつの間に戻ったのか、差し出される匙に、小さく頷いて。
 佐助に支えられながら、ゆっくりと身を起こす。
 小さく、関節が痛んだけれど、それほど、辛くは無かった。

「ねぇ、この…」

 問う前に、口の中に流し込まれる、どろりとした温かい感触。
 飲み下せばまた、匙は差し出され。
 見返せば、返って来る優しさを滲ませた瞳に、やはり、心配を掛けた罪悪感が、胸を過ぎる。
 きゅっと、手の中の御守りを、握り締めてみる。
 随分と長い間握っていたのか、それはしっくりと、手に馴染んでいて。
 こうして、意識が戻った今も、何故か手放すことが出来なかった。
 両親が、持たせてくれたのだろうか。
 
「若だんな、熱が引いたからと言って、無理をしないでくださいよ」
「分かってるよ」

 いつもと同じように、繰り返される仁吉の小言に、いつもと同じように、少しうんざりとした心地で、頷いてみせる。
 隣で佐助が、少し困ったように、苦笑していた。
 
 
 

「随分気に入っているんだねぇ」

 不意に、隣から掛けられた言葉に、一太郎は顔を上げた。
 視線で問えば、屏風のぞきが顎をしゃくって、手の中の御守りを指し示す。
 また、握り締めていたのかと、苦笑が漏れた。
 長引いていた熱が、ようやっと引いたのが、つい二日前。
 まだ、喉の奥に引っかかるような心地はしたけれど。
 少しなら、立って歩ける程には、回復していた。
 それでも、あの兄やたちが、許すはずも無く、こうして離れにいるのだけれど。
 あれからずっと、己でも何故だか分からぬけれど、左手の中、握り締めていた御守り。

「寝込んでるときも、ずっと握り締めてたものねぇ」
「そうなのかい?」

 やはりかと、わずか、目を見開いた。

「体拭くときも、あんまり離さないもんだから、仁吉さんたちが苦労してたよ」

 思い出したのだろう、形の良い唇から、今となってはと、笑いが零れる。
 覚えが無いことだけれど、一太郎も、苦笑を漏らすしかなかった。
 その、笑いを零す唇が、不意に、揶揄するように、口角を吊り上げた。

「やっぱり想い人からの品は、熱に浮されてても手放せなかったのかい?」
「……え?」

 唐突な言葉に、また、目を見開く。
 それも、覚えてないのかと、今度は屏風のぞきが、驚いたように、目を見開いた。

「松之助さんが見舞いに来た時に、置いて行ったんだよ。それ」
「兄さんが…?」
 
 自然、視線が、手の中の御守りに、落ちる。
 決して、高直なそれではないけれど。
 そっと、握り締めれば、己を想ってくれる心が、流れ込んでくる気がした。

「けど、仁吉たちは何も…」
「そりゃあ言ったら、若だんなの事だもの、すぐに廻船問屋まで駆けて行っちまうじゃないか」

 「仁吉さんたちもあんたのことが心配なんだよ」と続く言葉は、良く分かるけれど。
 良く、分かるけれど。
 分かって、いるけれど。

「だから、今はまだこの離れで…」
「兄さんに、元気になったって、言わなくちゃ」

 堪えることは、出来なくて。
 後で、止める声がしたけれど。
 縁側から直接、草履を引っ掛け、走れば、また倒れてしまうから、精一杯、足早に歩く。
 呼吸は、少し、苦しかったけれど。
 左手を、強く、握り締める。
 そこにある、御守りを、強く。
 流れ込んでくる心に、自然、笑みが浮かぶ。
 店表、立ち働く、松之助の姿を、見つけた。

「兄さんっ!」

 響いた声に、振り返った顔に、向けるのは、笑顔。
 手の中の、御守りを、掲げてみせる。

「ありがとう」

 返って来るのは、少し照れたような、安堵の色を強く滲ませた、微笑。
 ひどく、嬉しそうなそれに、つられ、笑みが零れる。
 本当に久方ぶりに見るそれに、心が、満たされる心地がした。
 例えその直後、すっ飛んで来た佐助に、離れに連れ戻されてしまっても。
 仁吉に、小言を言われても。
 仁吉たちに締め上げられた屏風のぞきに、恨み言を言われても。
 その笑顔さえ見れたら、一太郎は、それでよかった。
 大好きな、大切な人が、注いでくれた心に、少しでも、返すことが出来たなら。
 笑顔を、返すことが出来なたなら。
 一太郎はもう、それでよかった。
 ぎゅっと、握り締める左手の中。
 そこに在る心に、一太郎の口の端、いつまでも、ひどく嬉しげな微笑が、浮かんでいた―。