袂を掴む、幼い手をそっと解いて、薄い夏布団の中へと、仕舞わせる。
まだ眠くないと、軽くくずっていたけれど。
穏やかに規則正しい呼吸を繰り返す、あどけない寝顔に、知らず、笑みが零れた。
「おや、昼寝時だったか」
不意に、背中から掛かった声に、苦笑を用意して振り返れば、残念そうに眉尻を下げる伊三郎と目があう。
「上物の菓子を貰ったんで一太郎にと思ったんだが…」
視線の先、一太郎は寝息を返すだけ。
貰い手を失ったと見たか、すぐさま、屏風から伸びてきた手を叩けば、伊三郎が苦笑しながら、構わないよと、菓子鉢の中身を、分けてやる。
ふわり、ふわりと、吹き込んでくる風がりん、と風鈴を鳴らす。
「どうだい?幼子の守は慣れたかい?」
「えぇ。…このお子はひどく賢い。それに素直で…万人に好かれる素質をお持ちですから」
笑い告げれば、伊三郎が満足気に頷く。
佐助から受け取った団扇で、その孫に風を送ってやりながら、ぽつり、呟いた。
「…仁吉も、慣れたかな…?」
その視線は、一太郎の寝顔に注がれたまま。
佐助も幼い寝顔を見つめながら、ふ、と口元に笑みを浮かべた。
「えぇ。あれは誰より優しい、心の持主ですから…」
ぱたん、と一瞬、仰ぐ伊三郎の手が、止まる。
怪訝に顔を上げれば、驚いたようにこちらを見つめる顔があって、思わず、小首を傾げた。
「大旦那様…?」
どうかしたかと問えば、見開かれた目が、ふわり、ひどく優しい、笑みを浮かべる。
「うん。そうだね。あの子は、優しい優しい、心根をしているから…」
「はい」
頷けば、嬉しげに目を細め、また、止めていた団扇を、扇ぎ出す。
ぱたん、ぱたん。
優しい風に、一太郎の柔らかな前髪が、揺れる。
「誤解されやすい子だからね。少し案じていたんだけれど…」
その物言いに、そう言えば伊三郎は仁吉と、随分と長い時を、すごしているのだと、気付く。
そのことを口にすれば、ふふっと、何かを思い出したように、伊三郎が笑みを漏らした。
「昔、本当に大昔にね…」
ぱたん、ぱたん。
ゆっくりと規則正しく、団扇を動かしながら。
伊三郎はのんびりと、昔々の記憶、現世のそれではない、記憶を、語り始めた。
あれは、いつの時代だったか。
兎に角己は、日の暮れた山中で、途方に暮れていた事だけは覚えていると、伊三郎は懐かしげに目を細める。
「足を、痛めていたのかな。…おぉそうだ、その上雨まで降ってきてね」
木の葉を打つ激しい雨音と、痛めた足に絡む泥に、野宿を覚悟した。
「人が夜の山では…」
危険だろうと言う佐助の言葉に、伊三郎が苦笑しながら頷く。
「おぎんのね…好きな花を探しているうちに、すっかり日が暮れてしまって…」
そう言って照れくさそうに笑う伊三郎は、まるで昨日のことのように、『その日』を振り返る。
「贅沢をさせてやれるほどの財も、あの頃の私にはなくてねぇ…」
皮衣の好む花を摘んできてやるぐらいしか、喜ばせる術はなかったと、伊三郎は言う。
「それでも、幸せだったよ」
目尻の皺を一層深めて、笑う伊三郎は本当に、幸福そうで。
在りし日がみえるようで、つられ、佐助からも笑みが零れた。
「あぁそうだ。夜の山の話だったね…」
思い出したように、伊三郎の瞳が、遠くを見るように眇められる。
その瞳に映るのは、孫の寝姿か、夜の山か。
「仕方なく、木の根のあたりにでもじっとしてたんだろうね。兎に角、朝が来るのを待っていた…」
皮衣はきっと心配しているだろうとか、賊は出てきやしないかとか。
大事な大事な、ようやっと見つけた、根付きの花を、懐に抱えて。
色んなことを、抱えた膝の上で考えていたように、思う。
木の葉の間から尚、見に降り注ぐ雨は、ひどく冷たかった。
「不安じゃなかったと言えば、大きな嘘になるねぇ」
だから、背後で枝葉を踏みしめる音がしたときは、ひどく驚いたと、伊三郎は可笑しそうに言う。
「全く、気配を感じなかったんだもの」
ぱたん。
団扇の風が、優しく、一太郎の前髪を揺らす。
規則正しい寝息が、穏やかに部屋の空気を揺らしていた。
「むすくたれた顔してね。白沢が立っていたよ」
「迎えに来てくれたのか」と問えば、ただ一言「皮衣様が心配している」とだけ、告げられた。
雨や泥から、必死に守った花を掲げて笑えば、それはすぐに、いつもの無表情に隠されたけれど。
一瞬、白沢が驚いたように、目を見開いたのを、伊三郎は今でも覚えている。
律儀に差し出された雨具を受け取れば、一人、先に歩きだしてしまうから。
慌て立ち上がれば、足に走る痛みに、思わず、呻いてしまった。
「痛めたのかと聞かれたから、頷くだろう?そうしたら、黙りこくったまま、その辺の薬草を取ってきてくれてねぇ」
無表情に、近くの沢で濡らした手拭いにくるまれた薬草を差し出され、ひどく驚いたと、伊三郎は言う。
容易に想像できるその姿に、佐助は小さく忍び笑いを漏らす。
恐らく、丁寧に添え木までしてやったに違いない。
「結局、白沢は私を背負って、山を下りてくれたよ」
道すがら、決して己からは口を利かなかったけれど。
礼を言えば、「皮衣様の命だから」とだけ、返された。
「白沢にしてみれば、私は決して心良い人間ではないだろうからねぇ」
嫌われているのだと、思っていた。
真実、白沢は伊三郎、鈴君には決して己から近付くことはなかったし、視線すら、まともに合わせてくれたことはなかった。
時折交わす会話すら、ひどくそっけない。
「だからね、白沢にしてみれば、私を置き去りにするとか、谷底に突き落とすことの方が、良かったんだよ」
「そんなこと…」
「うん。しなかったねぇ。ずぶ濡れになりながら、私を運んでくれたよ」
皮衣の命とはいえ。
いくらでも言い訳など出来たはずなのに。
谷底に突き落とすことも、森の奥深くに置き去りにして、狼の餌にすることもなく。
適切過ぎるぐらいの傷の手当てまで施して、土砂降りの雨の中、泥に汚れるのも構わず、ただ黙々と、伊三郎を背負い、歩いてくれた。
「優しい子なんだよ。本当は」
誰より愛しく想う、皮衣が悲しむとか、色々な理由があるのだろうけれど。
あの雨の夜、森の中で負ぶさった背は、確かに温かかったと、伊三郎は、ひどく優しい目をして、言った。
「あの子はおぎん以外には、滅多に感情を見せないだろう?…だから、誤解されてしまうんだろうが…」
人を寄せ付けない、鋭利なまでの空気を纏い続ける白沢を、伊三郎も、皮衣も、密かに案じていたのだと、零す。
「だからねぇ、お前さんが来てくれて、良かったと思ってるんだよ」
唐突に、己に話を振られ、目を見開く佐助に、伊三郎は柔らかに微笑う。
「あの子が愛しいと想い、あの子を愛しいと想ってくれる人が出来て、良かったと、心底思っているんだよ」
その瞳の奥底。
滲む光は、本当に優しく、慈愛に満ちていて。
ずっと、皆を、見守ってきたのだなと、分かる。
「これからも、あの子と仲良くしてやっておくれね」
りん、と風鈴がなる。
蝉の声は、降るように鳴いていて。
「はい」
照れたように笑いながら。
けれどしっかりと、頷く佐助に、伊三郎はひどく安堵したように、嬉しげに笑った。
「仁吉と二人、ずぅっと、ずぅっと、坊ちゃんのお側に、仕えさせて頂きます」
言いながら、一太郎を見つめる佐助の瞳は、どこまでも優しくて。
伊三郎は満足そうに、その横顔を見つめていた。
「なんだい。佐助もいたのか」
りん。
風鈴の音と共に、入ってきた仁吉に、二人、交わすのは共通の笑み。
怪訝そうに眉根を寄せる仁吉には構わずに、どうしたと問えば、伊三郎から団扇を取り上げながら、藤兵衛が呼んでいると告げた。
「坊ちゃんはあたしらが見てますから」
早く行けと追い出すのに、伊三郎が苦笑混じりに腰を上げる。
それでも、その奥底に滲むのは決して冷たい感情ではないと、佐助も、伊三郎も知っているから。
仁吉を見遣る二人の視線は、温かい。
「それじゃあ、頼んだよ。…二人とも」
「はい」
揃った声が、心地よく部屋に響く。
りん、と涼やかに、風鈴が鳴る。
ぱたん、ぱたんと。
扇ぐ仁吉の風は、やはりひどく、優しかった―。