戸板も開けない薄闇の中。
 ちちゅんちゅん、朝を告げる鳥が鳴く。

「…………」

 からりと、襖を開いたその真下。
 ちょこんと座る存在に、佐助は一瞬、目を見開いた後、すぐに疲れたような溜め息を吐き出した。
 ここ最近、それは毎朝の習慣になりつつある。

「五徳……」
「お早う犬神殿。何か困ったことはないか」

 ふにゃんと、人懐こい笑顔を浮かべて、見上げてくる五徳猫に、佐助は困ったように眉根を寄せる。

「若だんなの目も元に戻ったんだ。何も困ったことなどないよ」
「…そうか……」

 一瞬、五徳猫は気落ちしたように俯いたけれど。
 直ぐに気を取り直したのか、笑い顔を見せ、胸を反らす。

「なら、困った事があればすぐに我に言ってくれ。我は義理堅い…」
「毎日々々着き纏われる方が迷惑だよ」

 不意に、佐助の背後、部屋の中から、五徳猫の言葉を遮るように、剣呑な声が響く。
 すぐさま佐助が、窘める様に睨み付けた。

「そう、なのか?」

 しょんぼりと見上げられ、佐助が僅か、たじろぐ。

「い、いや、そんなことないよ。大丈夫だ…それより五徳、あたしは本当にお前さんを助けた記憶なんてないんだよ」

 だから恩など気にせず、好きなところに行けと言えば、五徳猫はまた、ふにゃんと機嫌良く笑う。

「大丈夫だ。我は受けた恩は忘れぬ」

 話の通じぬ相手に、佐助は内心、溜息を吐く。
 背中で眉を吊り上げる仁吉にも、溜息が出そうになった。
 五徳が着き纏うのは佐助自身だ。
 一体何をそんなに苛立つのだろうと、背中を振り返れば、何故か佐助が睨まれ、眉根を寄せる。

「何だい」

 僅かに睨み返しながら問いかける佐助を無視して。
 仁吉は足元の五徳猫をつまみ上げると、そのまま、がらり、開け放ったと板の向こうに、投げ捨ててしまった。

「ぶみゃあぁ…」

 どさり、重いものが落ちる音がして。
 響く五徳猫の悲鳴に、佐助は慌てて、様子を見ようと戸板に手を掛けようとしたけれど。
 その鼻先で、ぴしゃりと、開けたば開けたの戸板を、仁吉が閉めてしまった。

「仁吉っ!」
 
 窘める様に名を呼べば、不機嫌そうに鼻を鳴らされる。
 そのまま、やはり、佐助を無視して、お店の方に向かってしまった。

「何だってんだ…」

 一人、取り残されて。
 佐助の呟きは、無人の廊下に解け消えた。




「犬神殿犬神殿。何か困った事は無いか」

 影から囁きかける越えに、客を送り出した佐助の笑い顔が、引き攣る。
 
「何にもないよ。…今は忙しいからまた後で…」

 小声で、囁き落とせば、暗闇で五徳猫が肩を落とすのが、気配で分かる。
 その様は気の毒だとは思うが、助けた覚えもなければ、真実、困っていることもないのだから仕方ない。
 
「ではまた夜にでも…」
「いや、もう良いよ」

 仁吉がいる時に来られたら、また、機嫌が傾きかねない。
 疲れたように溜息を吐き出して、そういえばと、今朝の事を思い出す。

「お前、放り投げられたけど、大丈夫だったのかい?」
「え?あぁ…。強かに腰を打ち付けてな。いやあ、参った参った」

 猫の癖に腰を打つとはどういうことかと、思わず、呆れた視線を投げてしまうけれど。
 五徳猫は、そんな視線を気に留める様子もなく、ただ、ふにゃんと笑うだけだった。

「どうも我は、白沢殿に嫌われてしまったようだ」

 しょんぼりと、肩を落とす様が、なんだか哀れに思えて。
 佐助はそっと、その眉根を寄せた。



「仁吉」
「うん?」
 
 夜、布団を敷きながら、何気ない口調で、切り出す。
 別に己には関係ないことといえばそれまでだが。
 五徳猫は別段、悪い奴にも、思えない。
 犬神殿犬神殿と、己に懐く者が、しょんぼりと肩を落としているのはどうにも気持ちの良いものではなかった。

「五徳の事だけどね…」

 途端、仁吉の眉間に皺が寄る。
 その様に、佐助は呆れたような声を上げた。

「何だってそんなに嫌うんだい」
「……だってお前に付きまとうから」
「は?」

 布団を敷くことで器用に視線を逸らしながら。
 ぼそり、呟かれた言葉に、佐助は一瞬、呆けたような面を晒す。
 唐突過ぎて、訳が分からない。

「え、と…つまり何か?お前はあたしに付き纏うから、五徳が気に入らないと?」

 段々、米神あたりが痛くなってきた気がする。
 ぐっと、指先で米神を押さえながら、確かめるように言えば、仁吉がむすくたれた表情で、こっくりと頷く。
 その様に、子供かと、怒鳴りたい衝動をぐっとこらえる。

「なんであたしに付き纏うのが気に入らないんだ?」
「…お前は優しいからね…。五徳の奴が勘違いしたら困る」
「………」

 何をどう勘違いするんだと、叫びたい心地にさせられたが、此方も五徳と同じほど、話が通じない手合いかもしれないと、諦めて、それは重い溜息を一つ、漏らした。

「五徳もそのうち諦めて出て行くだろうさ」

 昼間、離れをのぞいた時は、鳴家たちに思い切り髭を引っ張られ、随分と大きな顔になってしまっていたのに、それでも機嫌よく笑っていたのを思い出す。
 出て行く、だろうと思う。多分。

「どうだかね」

 吐き捨てるようにそう言って。
 先に布団に入ってしまった仁吉に、佐助はもう一度、こっそりと溜息を吐いた。

「頼むからいじめる様な真似はやめとくれよ」

 溜息交じりに、自分も布団にもぐりこめば、後ろから、仁吉の腕が絡んでくる。

「…努力する」

 佐助の肩に顎を乗せるようにして。
 不機嫌そうに、それでも、零された肯定的な言葉に、佐助はようやっと、小さく笑った。