真っ黒な窓ガラスに、シゲの顔が歪に映る。
激しく窓を叩く雨の向こうで、大きく、庭木が枝葉を揺らしていて。
明日の練習はグランドの整備からだなと、水野はうんざりと思った。
「めっちゃ雨やなぁ」
しごく当たり前のことを口にするシゲに、水野は気の抜けた相槌を投げる。
それでも、がたがたと窓を揺らす風雨の激しさに、視線はつい、窓の外に向いていた。
「明日はグランドの掃除からだな」
「織姫と彦星、逢えへんなぁ」
うんざりと零した言葉に返って来た、何の脈絡も無い言葉に、一瞬、意識がついていかない。
壁にかけられたカレンダーを見て、初めて、今日が七夕であることを、思い出した。
「ああ、今日七夕だっけ」
「うん」
そう言えば、数日前から、商店街に笹飾りが設けられていたような気がする。
高井たちが、戯れに願い事を書き込んでいた。
「逢えないことないだろ」
「え?何で?」
何気なく零した言葉に初めて、シゲが振り返る。
小首を傾げながら、ベッドに腰掛ける水野の隣に、腰を下ろした。
ざあ、と、一層強く、風が吹いて。
雨粒が、窓ガラスに打ち付けられる。
「何でって…。良く覚えてないけど、天の川に鷺か何かが、橋を掛けてくれるんじゃなかったかな」
幼い頃、祖母から聞いた七夕伝説は、確かそんな話だったはずだと告げれば、シゲが「ふぅん」と、納得したような、そうでないような返事を、投げ寄越した。
「鳥の橋って…。なんや頼りないなぁ」
「お前夢の無い事言うなよ」
「やってそう思わん?」
呆れた様に言えば、リアルな鳥の橋を想像していたのか、「俺なら渡れん」と、真顔で言うシゲに、つい、笑ってしまう。
「でも、渡れんやろ」
「鳥の橋?」
尚も、呟くシゲに、そんなにも引っ掛かる話しかと、少し怪訝に思いながら、顔を覗き込めば、小さく、首を振られて、今度は水野が、小首を傾げた。
「帰りの橋」
「七夕が終わって、その帰りってことか?」
一年に一度の逢瀬が、終わりを告げて。
一組の相想いの男女が再び、引き離される。
自ら、渡ってきた橋を、もう一度渡って。
「だってな、一年ぶりに逢うたんやで?一年ぶりに逢って、こうやって」
言いながら、手を取られる。
きゅっと、手指を絡ませられて、不覚にも、とくり、胸が騒いだ。
「触れ合うことができたんに、また…たった1日で、また、離しなあかんのやで?」
そうしてまた、一年の月日を、待たねばならない。
せっかく、二人は触れ合うことが出来たのに。
「だってそれは…元々は織姫と彦星が、悪いんだろ」
色恋にかまけて、仕事を怠けた二人への罰。
だから、仕方ないだろうと、気恥ずかしさを誤魔化すように、早口に告げれば、シゲは、納得がいかぬというように、再び、絡めた手指に、力を込めた。
「じゃあタツボンは、すんなり離すことができるん?」
「こんな風に」と、まるで突き放すように。
荒く、手指を解かれて、その、離れた熱に、ちりと、胸が痛んだ。
色恋にかまけて、仕事を怠けた二人への罰。
けれどそれは、あまりに残酷な仕打ちのように、思う。
「…それは……。お前はどうなんだよ」
「俺は絶対嫌や」
はっきりと、言い切って。
また、手指を絡ませてくるのに、とくり、胸が騒ぐ。
「嫌だ、って…じゃあどうすんだよ」
「逃げる」
言い切る目は、強い光を宿していて。
思わず、目を見開けば、掠める様に口付けられた。
「逃げて、二人で暮らす。…ずうっと」
不意に、ひどく柔らかな笑みを、その形の良い唇に浮かべて言うから。
唐突な口付けを、詰る言葉も忘れてしまう。
「ば、かじゃねぇの」
「じゃあタツボンは、逃げてくれへんの?」
情けなさそうに眉尻を下げるシゲに、また、言葉に詰まる。
気恥ずかしさに、視線を逸らそうとするのを、顔を覗きこまれて、阻まれた。
「なぁ」
顔を覗きこまれて、促されて。
頬が、熱い。
「……お前だけだと心配だからな。…ついてってやるよ」
ぼそりと、零した途端。
唇に触れた、柔らかな感触。
シゲの、金髪の向こう。
真っ黒な窓ガラスに、朱い頬の自分が、映りこんでいた。
叩きつけるような雨音は、まだ止む気配は無くて。
木々をしならせる強風も、収まる様子が無いから。
今夜はもう少しだけ、こうしていよう。