「シゲ…」

 呼び止めてくる声が、低い。
 さて、どうやって誤魔化そうかと、思案しながら、とりあえず、いつもの笑みを用意して、振り返る。
 昼休みの廊下のど真ん中。
 皆が穏やかに談笑したり、雑巾を丸めて野球の真似事なんぞしている、その、廊下のど真ん中で。
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、僅かに自分を見上げてくる水野に、シゲの笑みが、苦笑に変わる。

「お前、どうした」
「何が?」
「そのクマ」

 ついと、水野の細く白い指が、シゲの顔の真ん中から少し上、丁度下瞼の辺りを、指し示す。
 うっすらと、隈が浮かんでいることに、シゲ自身も、気付いていた。
 何しろ昨夜は殆ど寝ていない。 
 否、眠れなかった。

「いやあ昨日はものごっつい可愛いお姉さんに…」
「………」
「いった…!何すんのんっ?」

 無言で、思い切り右頬を掌底で押された。
 思わず、頬を押さえてしまう。
 その皮膚の向こう。 
 触れた歯茎が、腫れているのが、自分でも分かる。
 熱を孕むそれは、熱く、痛い。

「虫歯かよ」

 呆れたような視線に、シゲは不服そうに唇を尖らせる。 
 その額を、ぺしり、銀色のシートが、叩いた。

「何?」
「痛み止め。とりあえず飲んでろ」

 差し出された市販薬がありがたい。
 常に持っているのだろうかとか、まるでママだなとか、色々余分な言葉が出てきたけれど。
 折角の救いの手を失いたくは無かったので、大人しく押し頂く。

「さっさと歯医者行って来いよ」
「いやや。痛いもん」

 あの機械音が嫌だ。
 何より、寝ているだけで、何をされているのかも分からない状況が怖い。
 そう言えば、また、呆れた様に溜息を吐かれて、むっとする。

「予約入れといてやるよ」
「いらん!放っといたら…」
「治らないからな。絶対」

 言い切られ、二の句が告げなくなる。
 歯科のあの椅子に座ることを想像しただけで、背筋が粟立つ。
 ずくり、また、奥歯が疼いた。

「だって怖いもぉん…」

 情けなく語尾を延ばしながら。
 不貞腐れたように、廊下の隅にうずくまってしまったシゲに、水野からまた、溜息が一つ。

「放っておいたらもっと酷くなるぞ」
「そんな正論いらん」

 第一、放っておいたからこそ、此処までひどくなったのだ。
 それぐらい自分が一番良く、分かっている。

「じゃあどうしろって言うんだよ」

 呆れたような口調は変わらずに。
 少し困った様に、己の横に腰を下ろした水野の手を、引く。
 引き寄せた肩に、とうとう痛み出した頭を乗せて。
 
「ついて来て」
 
 強請るように甘えるように、言葉を吐き出せば。

「ガキ」

 拒否されるかと思ったけれど。

「初回だけだからな。ちゃんと通院しろよ」

 続いたのは、少し、予想外の言葉。
 思わず、その顔を覗き込めば、反射的に逸らされてしまったけれど。 
 紅茶色の髪から覗く、白い耳が、赤い。

「うん。ありがとう」

 今が昼休みで。
 此処が生徒達で溢れかえる廊下でなければ。
 抱きすくめたくなる程に、愛しい。
 何より、虫歯じゃなければ、口付けたい。
 舌下に白い錠剤を放り込みながら、笑うシゲの顔はひどく嬉しそうだった。


  
 

 白いタイル張りの建物を見上げる横顔が、微かに、引き攣っている。
 本当に苦手なんだなと、つい、内心で呟いてしまう。

「ほら、行くぞ」
「いやや、やっぱり帰る」

 促せば、本当に踵を返そうとするから。
 ぐいと、その手首を引いて、中へと促す。

「たつぼんってば積極的ー」
 
 揶揄する声音が、いつもより固い。
 思わず、笑ってしまいそうになるのを堪えながら。
 スリッパに履き替え、待合室のソファに、シゲを座らせる。
 つんと、鼻腔を突く、消毒薬の匂い。

「17時に予約をお願いしてた佐藤ですけど」

 無理矢理、シゲに持ってこさせた保険証を差し出して、問診表にあれやこれやと記入する。
 
「たつぼんオカンみたいやなぁ」
「うるさい。俺がオカンならお前は小学生だ」

 へらり、背中で笑うシゲに、目の前の受付のお姉さんが、くすり、笑みを零す。
 顔を上げた水野と目が合えば、「仲良しなんですね」と、また、笑われた。
 
「黙って待ってられねぇのかよ」
 
 少し、気恥ずかしくて。
 不機嫌に眉を顰めながら、シゲの隣に、腰を下ろす。
 履きなれない薄いスリッパの踵で、ぱたり、ぱたりと音を立てながら。
 「だって緊張するやん」と応えるシゲの視線は、どことなく落ち着かない。
 診察室から響く、子供の泣き声に、一層、シゲの横顔が、強張った。

「大丈夫だって。ここ痛くないって評判だから」
「ホンマに?」

 励ますように。
 膝の上で固く組まれたシゲの手を叩けば、何処か縋るような色を浮かべた目に見上げられ、思わず、苦笑する。
 
「俺がついててやってんだから。安心しろよ」

 もう一度、シゲの手を叩いて。
 口角を吊り上げて笑えば、ようやっと、シゲの表情にも、笑みが戻る。
 
「うん」

 頷いた、その時。
 薄いピンクのユニフォームに身を包んだお姉さんが、シゲの名前を、呼んだ。

「ほら」

 促すようにそっと、背を押す。

「うん。…行って来る」

 立ち上がる、その間際まで。
 縋るように、水野の手指を握っていたけれど。 
 ゆっくりと、名残惜しそうに指を解いて、診察室へと、消えて行った。

 


「なんかめっちゃ、ほっぺた違和感あんねんけど…」

 右頬を擦りながら出てきたシゲの目が、ほんの少し赤くなっていて。
 
「泣いたのか?」

 思わず、指を指して笑ってしまった。
 
「…ちゃうわ。潤んだだけや」

 言葉と共に出された低い蹴りを躱しながら。
 ソファの隣を、叩く。
 憮然とした表情のまま、腰を下ろすシゲの横顔は、本当に疲れきっていて。
 固く、椅子の肘置きを握り締めながら、涙目で治療を受けるシゲを想像したら、また、笑いがこみ上げてきて。
 喉の奥、必死に押し殺す。
 つい、可愛いなんて思ってしまったと告げれば、また、怒るだろうか。
 
「よく頑張りました」

 笑い顔のまま。
 ふうわり、傷んだ金髪を、かき乱す。

「………」
「シゲ?」

 また、怒るかと思ったのに。
 反応の無さに、怪訝に顔を覗き込めば、すぐに逸らされてしまう。
 傷んだ金髪から覗く耳が、赤い。

「な、何照れてんだよ」
 
 言ったこっちが、気恥ずかしくなってしまって。
 水野もつい、視線を逸らしてしまう。
 二人、顔を背け合って。赤くして。
 随分変な光景だろうなと頭の片隅で思った時。
 受付のお姉さんが、シゲの名前を、呼んだ。
 会計を終えて、薬を処方されて。
 一足先に、スリッパから靴へと、履き替えながら。
 何事か、言葉を交す後姿を、見守る。

「え?まだ来なアカンの?」
「次は経過を見るだけですから、痛くないですよ」

 笑いを堪えたお姉さんの言葉に、一瞬、シゲが二の句を失う。
 その様に、また、笑ってしまって。
 背中越しに、シゲに睨まれた。

「たつぼん」
「何」

 綺麗に拭き清められたガラスのドアを押し開く。 
 外に出れば、随分温かくなった風が、消毒薬の匂いを、払う。
 
「ありがとうな、今日」

 少し照れたような笑い顔に、つられ、笑みが零れる。
 二人、声を立てて、笑った。
 互いの、その笑い顔が、なんだかひどく、愛しかった。