朝の風が、木々を揺らす。
忙しない都会の一等地にありながら、その屋敷には高く張り巡らされた屈強な塀とそれを覆う様に植えられる、都会では珍しいほどの庭木に遮られ、外界の騒音は届かない。
贅を凝らした庭に作られた、大きな池の錦鯉が、ゆったりとその赤い尾びれを揺らす。
渡ることを忘れた椋鳥が一声、その甲高い声で鳴いた。
その屋敷の一室、一もと同じ時間に、隣に眠る相方を起こさぬよう、男はそっとその長身の身を起こす。
音も無く開けたクローゼットから、黒のシャツを選び出すと、とりあえずといった体で羽織る。
更に大きく開き、奥のバーから同じ黒のスーツを取り出すと、まず、パンツだけを穿く。
ネクタイと上着は小脇に抱え、からりと障子を開く。
まだ柔らかい朝の日差しが、縁側から差し込んでいた。
「おはようございますっ」
不意に掛けられた声に、一瞬、驚いて身構える。
けれどそれが新人の部屋住みの若い衆だとわかると、ほっと肩の力を抜き、そっと視線で部屋の中を示す。
「元気が良いのはいいがね。仁吉はまだ寝てるんだ」
小声で窘めると、まだ幼さが残る顔立ちの青年は、はっとして頭を下げた。
「至りませんで。すみません」
その声は、もうすでに硬く強張っている。
自分が身を置く世界は、ひどく厳しい。
殊に上下関係においては、それが己の身の振りを左右すると言っても過言ではない。
下の者が至らない点があれば、容赦なく拳が飛んでくる。
目の前の若者も、殴られることぐらいは、覚悟しているのだろう。
強張るその肩が僅かに震えているのを見止め、思わず、苦笑が漏れる。
「まぁ良いさ。それより…なぁアンタ…」
「はいっ」
出される指示を一語一句聞き逃すまいと勢い良く振り返る青年に、男は、佐助は口を開く。
「俺達の世話はしなくて良いぞ」
「え…?」
余程予想外の言葉だったのか、青年は呆然と目の前の長身の男を見上げる。
「自分が…やっぱり至りませんでしたか…?」
その顔面はもはや蒼白と言ってもいい程に、血の気が失せている。
部屋住みで、兄貴分たちに取り入らねば、後々身を立てる時に苦労する。
言い換えれば、そこで嫌われれば、今後の見込みは無きに等しいのだ。
青年の心情を読み取った佐助は慌てて、否定する。
「いや、そうじゃなくて。俺達は御庭番だから、組とは直接は関係ないんだよ」
だからもう面倒を見なくて良いと続ける佐助に、青年は困惑気に視線を彷徨わせた。
「でも…親父さんからは…」
「親父さんには俺から言っておくから…アンタも他の兄貴分の世話で忙しいんだろ?」
その言葉に、青年は戸惑いながらも頷く。
おそらくはこの後も、仕事が山のように待っているのだろう。
「じゃあもう良いから。行きなよ」
安心させるように笑うと、今だ戸惑いつつも、青年は軽く頭を下げて、「失礼します」と言って踵を返す。
足早に去っていく背中を見送って、ほっと息をつく。
佐助が身を置くのは、広域暴力団、長崎組を取り仕切る組長の家だ。
御庭番である佐助と、まだ眠っている仁吉の二人は、組からは独立した立場にあったが、それでも、その力量を知らぬものは居ない。
組長直々のお抱えの二人に取り入ろうと、自分の舎弟を世話役として送り込んで来る者は後を絶たない。
けれど、全く知らない他人に、常に傍に張り付かれ、あれこれと世話を焼かれるのを、二人ともひどく嫌う。
自分の世話ぐらい自分で出来ると、何度もこうやって追い払うけれど、それでも後を絶たなかった。
洗面所で顔を洗うと、ようやっと、その水の冷たさが頭を覚ます。
濡れた手のまま、洗面台の脇に置かれた整髪料を手にとり、指先に馴染ませる。
染める事のない髪は痛みを知らず、濡羽烏の様に黒い。
その髪を軽く後ろに流して、指を差込み、毛束を捻じり、手早く整える。
指に残る整髪量の名残を、石鹸を使って洗い流すと、丁寧にタオルで水気を拭う。
鏡に映る横顔は、一見、鋭い目元がきつい印象を与えるが、整った顔立ちをしていた。
脇に置いていた臙脂色のネクタイを締めると、鏡で歪んでいないか、確認する。
少し褐色を帯びた肌に、それは良く映えた。
日本人には似合わないと嗤われるスーツも、水商売の男達を髣髴とさせ、嫌味になりがちな黒と臙脂の組み合わせも、長身でしなやかに長い足を持つ佐助には、ひどく似合う。
佐助は引き戸を開けると、贅を凝らした純和風造りのこの屋敷の、無駄に広い廊下を今へと急ぐ。
若い衆と話しをしていた所為で、いつもより少し、遅れていた。
「おはようございます」
声と共に開けた障子の向こうから、柔和な笑みと共に、同じ言葉が返される。
「いつもすみません」
席に着くと同時に、掛けられる言葉に、顔を上げると、すまなそうに眉尻をさげる、己が主人の兄と視線がぶつかった。
「いや、これも仕事ですから」
笑って言うと佐助の主人の兄、松之助はつられたように微笑する。
佐助は、目の前の漆塗りの卓に用意された朝食の椀を手に、この謙虚さが松之助の良い所だと、ぼんやりと思う。
松之助は、正妻の子であり、佐助達が仕える主人でもある、長崎組の跡取り息子、一太郎とは母親が違う。
つまり、組長である藤兵衛が、他所で成した妾の子だった。
しかし藤兵衛とは恋愛結婚を果たしている、正妻であるおたえが、妾の存在など許すはずも無く、松之助の母には十分な金が支払われ、
つい最近まではその存在すら知らぬ程、完璧なまでに長崎組とは無関係な世界で、平凡に生きていた。
けれど、悲劇は起こってしまった。
長崎組と敵対していた組の抗争が勃発した時、追い詰められた相手が、その矛先を、妾先に向けたのだ。
長崎組に対する、見せしめの様に、家に火を放ち、今まで無関係に生きていた松之助から全てを奪い去ってしまった。
突然、家を、家族を奪われた松之助を、その責任は自分にあると、藤兵衛はこの屋敷に引き取ったのは、つい、最近の話。
それを事の他喜び、歓迎したのが、腹違いの弟、一太郎だった。
己に兄弟が居たことを、ひどく喜び、その余りの喜び様は、松之助に対し良い顔をしなかったおたえも、同居に首を縦に振った程。
幼い頃から病弱な上、この家庭環境。
録に学校に通えぬ彼の為に、奨学金で 某有名私立大に通っていた松之助は、住み込み家庭教師と言う役職を藤兵衛から与えられていた。
「お前も少しは松之助さんの謙虚さを分けてもらったらどうだ」
呆れたように呟くと、目の前の皿から卵焼きを摘む手が、一瞬止まる。
白く、細い指先は、赤と白の細かな市松模様が爪を彩っていた。
その爪先が捕らえた卵焼きをもごりと口に放り込みながら、窘められた男が不貞腐れたように佐助を睨む。
「良いじゃないか。卵焼きの一つや二つ、細かいことを気にしなさるな」
左手に嵌めた同じく赤白の市松模様のグローブで軽く口を拭いながら、いつの間にか居間に入ってきた男は、松之助の隣に行儀悪く立膝を突きながら、もごもごと租借する。
その形は、幾多のスーツ姿の男達が出入りするこの家の中では、少し、浮いていた。
細身の黒のスーツに赤いネクタイ。
細い脚のラインを綺麗に出したパンツの腿の所には、やはり赤白の市松模様のバンダナが巻かれており、腰から下がったチェーンにはvivienne Westwoodの丸いシルバーのボディにそのロゴが浮いた携帯灰皿。
片方だけ長く伸ばしたアシンメトリーの前髪に、肩よりも下に伸ばした後ろ髪は、今日は顔の横、耳の下辺りで一つに纏められていた。
その細く真っ直ぐな黒髪を纏めるのは、何故か女物の丸い、少し大きめのファーが付いた派手なコンコルド。
細い首の上には、その派手な服装が似合うだけの、華やかな作りの顔が、乗っていた。
相変わらず派手なその形に、佐助は思わず溜息を付かずにはいられない。
そこへのんびりと、松之助が声を掛ける。
「おはようございます」
「おはよう」
松之助と微笑を交わし、男は、更に目ぼしい物は無いかと、卓の上に身を乗り出す。
「屏風っ」
佐助の低い一喝に、香の物に伸びていた手が、びくりと止まる。
不承不承を言った感で手を引っ込めながら、男は、屏風は口を開く。
「今日はあたしも同行させてもらうよ。坊ちゃんの命だからね」
その言葉の意味するところを察した佐助の眉が、つっと寄せられる。
向かいに座る松之助も、不安げにその顔を曇らせた。
急に表情を引き締めた屏風が再び身を乗り出してそっと佐助に何事か耳打ちする。
黒い天板の上を、屏風の赤いネクタイの先が滑る。
それに頷きながら、佐助は安心させるように、松之助に笑いかけた。
「大丈夫ですよ。こんなのでも一応、松之助さん一人位の護衛は出来ますから」
「随分だねっ」
吠え付きながら、それでも屏風は松之助に頷いてみせる。
佐助は、いつも相方の仁吉と交代で松之助を大学まで送迎していた。
一度襲われている以上、この家から一人で出すわけには行かないからだ。
それに今日は屏風までが同行すると言う。
それは、一日松之助に着くと言うことで、つまり、今この組の状況を如実に表していた。
一日中護衛が付いていないと危険な状況、今回は、敵対する組に、不穏な動きがあったという。
それで、それを心配した一太郎が、屏風を護衛にと、着けたのだ。
これから、少し忙しくなるかもしれない。
そう思うと、知らず、背に緊張が走る。
ふと、視線を感じて顔を上げると、屏風が仕草で何事か示す。
「一寸待ってろ」
察し、箸を置くと、屏風と松之助をその場に残し自室に戻り、クローゼットを開く。
奥の暗がりに隠すように置かれる金庫を開き、拳銃を取り出す。
手早く確認し、撃鉄は正常に作動するか、引き金に引っかかる感じはないか、安全装置を確認して、最後に実弾を装填した。
それを手前においてある晒して簡単に包むと、足早に今に戻る。
「ほら」
差し出すと、先程佐助がしたのと同じ動作で、晒しの中身を確認する屏風。
黒い銃身が、淡い朝の光に、鈍く光る。
のんびりとした食卓に似合わぬ光景が、何よりも、彼らが身を置く世界を現していた。
「まったく世の中も便利になったもんだねぇ…。引き金を引くだけでいいなんてさ」
再び晒しに包んだそれを、己の上着の内ポケットに仕込みながら屏風は皮肉気に笑う。
その表情に、口調に、自分と余り歳の変わらぬはずの屏風が、ひどく年上に映り、松之助は己が抱いた違和感に首を傾げた。
それもそのはずだった。
佐助も、その相方の仁吉も、屏風も、皆人では無い。
佐助は本性を犬神と良い、その齢は千年に届こうかと言う大妖、その相方の仁吉も、本性は齢千年を軽く超える白沢と言い、佐助と双を成す大妖だった。
屏風は、本来屏風のぞきと言う古屏風の付喪神で、佐助や仁吉たちに比べれば格段に力も弱かったが、それでもその齢は百年は超えていた。
そもそも、先代組長、伊三郎の妻、おぎんが、人ではなかったのだ。
弱い三千年を超える妖狐皮衣、今もこの屋敷の敷地内に広大な社を構え、そこに住まっている。
しかし、それを知る者は少なく、組長の藤兵衛ですら、気付いていない。
やくざが庭に稲荷の社を建てる事など、別段珍しいことでもないからだ。
その皮衣が、病弱な上に危険が家業の孫の為にと、使わしたのが佐助と仁吉だ。
御庭番と言う形で入ってきた二人とは別に、屏風は伊三郎の代から、その人ならぬ身を活かして何とこの家の手助けをしていた。
先の不穏な動きにも、いち早く気付いたのは屏風だった。
組の構成員とは完全に別の形をとり、独自に動く屏風の存在は、やはり知る者は少ない。
「おっと。もうこんな時間だ。早く行かないと遅刻じゃないのかい?」
屏風の言葉に、松之助が慌てて席を立つ。
脇に置かれた重たげな鞄を手に立ち上がったのを合図に、佐助たちは部屋を出る。
玄関で白のマーチンブーツに足を突っ込みながら、不意に屏風が佐助を見上げた。
「坊ちゃんのことは頼んだよ…」
ひたと視線を合わせる、その目は強い光を宿していて、真剣さが痛いほどに伝わってくる。
幼い頃から遊び相手の居ない一太郎の傍に付いていた屏風は、佐助たちと引けを取らぬほどに、この家の跡取り息子を大事と思っていた。
「あぁ」
深く頷き、佐助も磨きこまれた黒の革靴を履く。
広い玄関の戸を左右に開け放つ。
贅を凝らした広大な庭に敷かれた飛び石が、若い衆たちが撒いた水に黒く塗れ、陽光を跳ね返し、煌いていた。
「いってらっしゃいましっ」
低い男達の唱和の間を、三人は進む。
石の凹凸に溜まった水が、微かにぱしゃりと音を立てる。
元が紙の屏風は、不機嫌そうに眉を顰めながら、器用に水を避けて歩く。
立派な枝振りの松が覆うその上を覆う豪勢な造りの歌舞伎門の門構えを潜れば、もうそこは彼らにとって危険の満ち溢れた世界だった。
用意されていたフルスモークの最新型のベンツに乗り込むと、佐助は静かにその黒い車体を路面へと滑らせた。
松之助たちを無事に送り届け、自室に戻ると、白いスーツの背が、布団を上げた畳に胡坐を掻いていた。
微かに香る、苦味のある臭いに薬を調合しているのが分かる。
いつどうやって、何処で取得したのかは知らないが、仁吉は薬剤師の免許を持っており、病弱な一太郎の薬を、自ら調合していた。
但し、それは彼の独断と偏見と経験からなるもので、医師の見立てなど無い。
それでも不思議と、仁吉の薬は良く効いた。
人の世では手に入らぬものが入っているからだと、知っている者は、やはり少ない。
時計を見遣れば、相方が置きだすにはまだ少し早い時間。
「起きてたのか」
自分に掛けられた意外そうな声に、仁吉はつっとその形の良い眉を不満げに寄せる。
佐助とは対照的に白いスーツに黒のシャツ、スーツと同じ白のネクタイをした仁吉は、嫌味になりがちな白いスーツをその細い肢体に綺麗に着こなしていた。
「あのガキがデカイ声でお前に挨拶したときから起きてたよ」
苛立たしげにその色素の薄い髪を、細い指でかき上げながら寝不足だ何だとぶつぶつと零す。
あの新人が最初に声を掛けたのが自分でよかったと、佐助は内心、溜息を付く。
仁吉だったらきっと、無碍も無く冷たく追い払っていただろう。
「坊ちゃんは?」
「起きてなさるよ。屏風を松之助さんに着けさせた」
佐助の言葉に、仁吉のその切れ長の目が、つっと細められた。
僅かに、剣呑な光が宿る。
「忙しくなるぞ」
「みたいだねぇ…」
相槌を打つその声は、けれど不安気な響きは一切無い。
それは佐助も、同じだった。
自分達が居る限り、大事な坊ちゃんには、どんな些細な危害も加えさせはしない。
子に甘く、婿養子と言う形でその地位に付いた藤兵衛だが、組織の上に立つ人間としては、誰にも引けを取らない素質を持っている。
組のことは、彼に任せておけば良い。
自分達はただ、その命に代えても、一太郎を守るだけだ。
「さぁて。坊ちゃんに部屋で大人しくしてるよう釘を刺しに行かなくちゃねぇ」
調合を終えた薬を片手に立ち上がり、口角を吊り上げる仁吉に、苦笑して後に続く。
庭の池の水面が、高く上った日を、反射する。
射す様なそれに目を細めながら、この平和は誰にも崩させはしないと、強く思う。
「坊ちゃん、入りますよ」
からりと開いた障子の向こう、出迎えた笑顔は、二人の何より大事なものだった―。