カタカタと。キーボードを指先が打つ無機質な音が響く。
 無音の部屋に響くそれに、不意に溜息が混じり、キーボードの音が止む。

「お前ね、暇なんだったらシノギの手伝いでもしたらどうだい」

 読んでいた文庫から顔を上げた仁吉は、うっとうしげに眉根を寄せた。
 ごろりと寝転んだまま、胡乱げに見上げれば、呆れたように眼鏡越しに見下ろされ。

「別にしなくても良いんならしない方が良いじゃないか。面倒臭い…」

 言って再び文庫に視線を戻せば、思わずといった風に、溜息を吐かれた。
 まだ何か言われるのかと、軽く片眉を引き上げて見ていたけれど。
 相方である仁吉の性格は、何より佐助が良く知ってるからか、諦めて再びパソコンの画面と向き合った。
 ノンフレームの細身の眼鏡のレンズに、画面が白く反射する。
 シノギの、長崎組が抱える表向きの会社から送られてきた簡単な仕事に目を通していく。
 暇つぶし程度のそれは特に強制されているものでもない。
 あくまでも、表向きの仕事で、本来二人には何の関係も無いもので。
 そんな、仕事とも呼べぬようなものを、それでも律儀に片付けていく相方を、仁吉は文庫本越しに見上げる。
 その、文庫の陰に隠れた口元が、不意に性の悪い笑みを浮かべた。

「佐助」

 そっと背後に忍び寄り、呼びかけに振り返ったその顔から、掛けていた眼鏡を取り上げる。

「仁吉…?」

 怪訝そうに見上げてくる目は、急に眼鏡を外したものだから、焦点が定まっておらず、どこか危うい。
 シノギの仕事の時にしか掛けないが、仁吉は何気にこの一瞬の表情が好きだった。
 かたりと、折り畳んだ眼鏡をパソコンの脇に置くと、今だ訝しげに自分を見上げる佐助の唇に、そっと己のそれを重ねる。

「ん…」

 一瞬、驚いたように目を見開いた佐助は、それでも、差し込んだ舌に応えてくれる。
 さりげなく上着を脱がし、袖から落ちたそれがばさりと音を立てると、唇を離した佐助に、そっと押し返された。

「駄目だ」
「何で」

 口では問いかけながら、仁吉はその細い指を佐助の臙脂色のネクタイに絡ませる。
 微かな衣擦れの音をさせて解けたそれに、佐助がいよいよ気色ばむ。

「まだ仕事が…」
「どうせ暇つぶしだろう?だったらあたしと暇を潰したほうが良か無いかい?」

 にやりと、口角を吊り上げながら言うと、佐助が諦めたようにため息を一つ吐いた。
 それを合図に、とんっとその体を畳の上に押し倒す。
 これだから畳は良いと、仁吉はひっそりと思う。

(洋室だったら体が痛くなるしねぇ) 

 そんなことを考えながら、佐助の黒いシャツに手を掛ける。
 開けた、少し褐色を帯びた肌に、それはひどく良く似合い。
 仁吉はそっと、それとは対照的な細く白い指を、その肌に這わせていった―。




 畳に立てられた爪が、空を掻く。

「…あ…っにき…待っ…」 
「この、状態で…それは無いだろう…?」

 背後から突き上げながら、不意に掛けられた制止の声に、返す己の声は、熱を帯びて掠れていた。

「だ…って…迎え…の…」

 言われ、時計に目を遣ると、確かにそろそろ、松之助を迎えに行かねばならない時間だった。

「………」

 こんな状態で、尚も仕事のことを気にするのか。

(そんな余裕があるのかい…)

 ふと、頭をもたげて来る嗜虐心。

(だったら何処まで耐えれるか見せてもらおうじゃないか)

 知らず、口角が意地悪く吊り上るのを、仁吉は感じた。
 ぐっと、身を乗り出して放り出した佐助の上着に手を伸ばす。

「…ぅあ…っ」

 不意に深くなった接合に、佐助の口から悲痛な声が漏れる。
 それには頓着せずに、仁吉は引き寄せた上着の内ポケットから、ケータイを取り出すと、荒い呼吸を繰り返す佐助の目の前に差し出す。

「………?」

 生理的な涙に潤んだ目で、戸惑う様に見上げてくる佐助に、形の良い唇に、綺麗な笑みを刷いて、言葉を投げる。

「それで松之助さんに電話したらいいだろう?…今すぐ」

 一瞬の間の後、仁吉の笑顔とその言葉の射す意味を解した佐助が目元を羞恥に染めて睨み上げて来た。

「…っざけるな…っ」

 その表情に、声に、何故か更に嗜虐心を煽られる。
 背筋を駆け抜ける快楽。

「仕方ないねぇ」

 言いながら、佐助の手からケータイを奪うと、メモリーから松之助のデータを呼び出すと、佐助の制止の声を無視して、発信を押す。

「やめ…っ」

 奪い取ろうと手を伸ばしてくるのを、片手で押さえつける。
 背後から貫くこの体位では、佐助に大した抵抗が出来ないのは明白で。
 何度目かのコールの後、機械的な音と共に、松之助の声が響いた。
 無言で、佐助に差し出してやる。

『もしもし?佐助さん?』

 ケータイから漏れ聞こえてくる、戸惑うような声に、佐助がびくりと身を震わせた。

「ほら…早く出ないと怪しまれるだろう?」

 小声で囁きながら、その耳朶に軽く歯を立てる。

「…っ。あ…あの…」

 一瞬、息を詰めた後、佐助は意を決したように口を開いた。
 ケータイを握り締める指が、小刻みに震えている。
 関節が白く浮き上がるほどに力が込められていた。

『どうしたんですか?』
「今日…ちょっと…っ」

 言葉が、途切れる。
 仁吉が、ゆっくりとその腰を動かしたからだ。   

「ほら、ちゃんと喋らないと」

 揶揄するように囁くと、涙が滲んだ目で、きつく睨みつけられる。
 また、快楽が背筋を駆け抜けた。

『すみません、良く聞こえなくて…電波が悪いのかな…?』

 松之助のその言葉に、佐助が焦るのが、目に見えて分かる。
 仁吉の笑みが、より一層深まった。

「あ…迎えが…遅れ…そ…で…っ」

 ずっと、深く突き上げてやると、最後の方は、ほとんど声にならず、取り落としそうになったケータイを、必死に握り締める。
 喉の奥で、漏れそうになる声を必死に押し殺しているのだろう。
 きゅっと、自身を受け入れている内壁にきつく締め上げられ、仁吉は「くっ」と息を詰めた。

『あぁそうなんですか。大丈夫ですよ』

 電話の向こうで微笑する気配がする。
 どうやらこちらのことは、気付いてない様で、佐助がほっと安堵するのが分かった。

『待ってた方が良いんですよね』 
「すみませ…ねがい…っます…っ」

 切れ切れに、なんとか佐助がそれだけ言うと、仁吉はさっさとその手からケータイを取り上げ、終話ボタンを押す。
 もう仁吉自身、限界が来ていた。

「―――っひぁ…っ」

 腰を引き寄せ、一気に激しく突き上げながら、自身を、佐助を、追い上げていく。

「…ぁ…っ」

 散々嬲られ、焦らされていた佐助はその動きに堪えきれずに精を吐いた。
 そのきつい締め付けに、仁吉もつられるように、佐助の中に吐精する。

「お前いい加減にしろよ…」

 自身を引き抜き、後始末をしていると、低い声と共に、まだ息が整わぬ佐助に睨み付けれる。  

「人とのセックスの最中に仕事のこと考えてるお前が悪い」

 いけしゃあしゃあ。
 言ったもん勝ちとのたまうと、どっと、疲れたように脱力する佐助。

「迎えお前が行けよ」

 それでも、このまま引き下がるのは癪に障るのか、そっぽを向いたまま拗ねたように言う佐助に、仁吉は苦笑しながら頷いた。

(それにまぁ…こんな状態の佐助を他人の目に晒すのもイヤだしね)

 まだ微かに朱が指した目元、潤んだ瞳に、情事の後の気怠さを纏ったい、うっすらと上気した褐色を帯びた肌は、酷く艶かしかった。
 あれだけのことをしておいて、今更だとは自分でも思うが、そこは譲れない。
 掠めるように口付けると、「さっさと行けっ」と噛み付くように追い払われた。



「ちょいと仁吉」

 夕食の後、膳を廊下に出していると、不意に一太郎に呼び止められた。

「どうしました?」

 小首を傾げて振り空けると、眉間に皺を寄せる一太郎。
 何か気に障ることでもあったか、また外へ出せとごねるのかと、仁吉は警戒しながらその正面に座りなおす。
 隣に座る佐助も、どうしたのかと不安げに一太郎を見遣る。

「あのね仁吉。お前達の恋路に口出しする気は毛頭無いけれど…」
「ぼっちゃんっ?」

 唐突な言葉に、血相を変えたのは隣の佐助。
 けれど、仁吉は方眉を器用に上げただけで、続きを促す。

「兄さんを色恋のダシに使うのは止めとくれな」
「―――っ」

 溜息混じりに言われ、佐助は言葉を失ってしまったように、唇を戦慄かせた。
 無表情な仁吉の眉が、微かに寄せられる。

「松之助さんが何か…?」

 仁吉の問いに、ゆるく横に首を振る一太郎。

「兄さんは何も気付いてないみたいだったけどね。『電話の佐助さんの声ってなんかちょっと掠れてて、色っぽいっていうか。…ドキッとしますよね』と、今日の授業のときに言われたんだけどね」

 それだけで、一太郎には分かったらしい。
 聡い子だと、仁吉は変なところで親心を出す。
 けれど。

「冗談じゃない。佐助はあたしのもんですよ」

 不機嫌そうな仁吉の言葉に、一太郎は苦笑する。

「誰もそんなことは言ってないよ。ただ、…兄さんは私のものだからね」

 最後の言葉は、念を押すように低められた。
 つまり、色恋するのはかってだが、人のもんを使うんじゃないということだろう。
 仁吉は苦笑して、頭を下げた。

「それは…失礼しました」
「まったくだよ」

 溜息混じりに呟かれる。
 冗談めいたそれに顔を上げれば、どちらとも無く笑みが零れた。
 隣で、佐助が無言で席を立つ。
 そのまま、黙って部屋を出て行ってしまった。
 見えなかったけれど、その表情は険しく強張っていただろう。

「機嫌を損ねたようだけど…」
「みたいですねぇ…」

 心配げな一太郎の言葉に、仁吉はのんびりと返す。
 さてこれから、どうやって機嫌を取ろうかと考えながら、仁吉も腰を上げ、一太郎の部屋を後にした―。