開け放たれた障子の向こう、色移ろう濃い色の紫陽花を、恨めしげに睨む。
 どんよりと暗い空から、細い銀糸のように、降り注ぐのは小雨。
 纏わり着く湿気が、己から力を奪う。
 身体はひどくだるく、あまり動く気にはなれなくて。

「屏風のぞきっ」
 
 幼い声に顔を上げれば、一太郎が手桶いっぱいに何かを持って、こちらを見上げていた。
 小さな手に手招かれ、拒みきれずに、のそり、何事かと抜け出る。
 途端、身を襲う怠るさに、思わず、屏風のぞきはその形の良い眉を顰めた。
 その瞬間。
 ばさり。
 目の前を覆った白に、一瞬、訳が分からなくなる。
 驚いて息を呑めば、細かな、灰の様な物を思い切り吸い込み、激しく咽た。
 着物の隙間から入り込んだ、ざらついた感触。
 頭から被ったのだろう、目も開けることができなくて。
 呼吸が、詰まる。
 それでも、己の目の前にいた一太郎は大丈夫かと、薄目を開けた時だった。

「仁吉っ屏風のぞきが…っ屏風のぞきが…っ」

 今にも泣き出しそうな、一太郎の悲鳴。
 どこか遠くに聞こえるそれに、どうやら大丈夫そうだと、安堵する。
 しかし、その幼い声が読んだ名に、背筋に嫌なものが走る。
 
「大丈夫ですよ坊ちゃん。石灰は湿気を取ってくれるものですから。屏風のぞきはこれで元気になります」
「石灰…っ?」

 その言葉に、思わず顔を上げれば、己の身体、頭から爪先まで、白く汚すそれは、確かに石灰で。
 それが掛からぬ様にと、仁吉に抱上げられた一太郎が手にしていたのは、中が白く汚れた手桶。
 恐らく、それいっぱいに入っていたのだろう。
 出てきたところを頭から降り掛けられたらしい。
 幼い一太郎が、わざとこんな酷いことをするはずも無く。
 
「お前の所為で汚れたんだからね。きっちり片付けとくんだよ」
 
 白く汚れた畳に膝を着いたまま、固まる己を冷ややかに見下しながら言い放つ仁吉。
 子供の顔に、およそ子供らしくない冷笑を浮かべて。
 誰がどう見ても、入れ知恵をしたのは仁吉だった。

「何であたしが…っ」

 あまりの理不尽さに、石灰に塗れたまま、睨みつければ、余程その様が可笑しかったのか、仁吉が声を立てて笑う。
 子供ながらに笑っては拙いと思ったのだろう、一太郎は、それでも堪え切れずに小さく吹き出した。

「お前があんまりにも元気が無いからと、坊ちゃんが気に病まれてねぇ。…だからわざわざ石灰を用意してやったんだよ。お前の為に」

 だからお前が片付けるべきだと言う仁吉に、一瞬、二の句が告げなくなる。
 それでも何とか反論しようと、口を開きかけた時だった。

「それとも何かい?あたしが気を分けてやろうかい?」
「―――っ」

 向けられた笑みは、確かに子供の顔に浮かべられたもののはずなのに。
 ぞっと、全身が総毛立つ程に艶然としていて。
 一瞬、その幼い顔に、白沢の影が重なった様に見えたのは、気のせいではないだろう。
 その言葉が指す意味が、当然、分からない屏風のぞきでは無くて。
 ぞくり、背筋に悪寒が走る。

「あ…い、いいよっ…分かったよ、掃除しときゃあ良いんだろうっ?」

 自棄になって叫ぶ己の声は、情けない程悲痛さを帯びていて。
 瞳に滲む怯えを、隠し切れなかった。
 そんな屏風のぞきを、一太郎が不思議そうに見遣る。

「そうだよ」

 さらりと満足げに笑いながら言い置いて、一太郎を連れて部屋を出て行く仁吉の、その小さな後姿を見送って、屏風のぞきはごろりと、畳に転がった。
 当然、汚れたままであったから、畳が更に汚れるとか、掃除の範囲が広がるとか、考えないことは無かったけれど、今はとても、そんなものに構う気にはなれなくて。
 いつも己に、優しい笑みを向けてくれる一太郎の祖父、伊三郎の顔が、脳裏に浮かぶ。

「旦那もとんでもないもんを寄越してくれたもんだよ…」

 呟きと共に、吐かれた溜息は重く、けれど、誰に受け止められることなく、部屋の空気に溶けて消える。
 無音の部屋に、微かな雨音だけが、響いていた―。