細く柔く、頭上から降り注ぐ雨は、まるで銀糸。
小雨程度のそれは、ともすれば夏のそれのように暑い天気を緩めてくれて。
ひんやりと涼やかな、頬を撫でる風は少し肌寒いほど。
「少し寒いね」
言いながら、僅か、身を震わせる犬神は、けれど、だからと言って部屋に入る気配も無く。
時折吹き込んでは、頬を濡らす雫は、いっそ心地良かった。
欄干に凭れながら二人、見遣るのは、雨音さえ無いような弱い雨に、しっとりと濡れた純白の紫陽花。
土の性質の所為なのか、色をつけることの無いそれを、皮衣は華が無いと残念がったが、白沢は好んでいた。
何物にも染まらぬようで、美しいと。
雨の所為で、いつもより強く薫る、土の匂い。
うっすらと遠くの雲が白い光を孕むのを見留め、白沢はつっと、その形の良い眉を寄せた。
この空が晴れれば、涼やかな空気は一転して、じっとりと湿り気を孕み、蒸したように暑くなるだろう。
「晴れるかもしれないね…」
呟いた言葉に、犬神も、嫌そうに顔を顰めた。
その視線が、同じように、遠くの雲を睨む。
「それは…暑くなるね」
「犬神は暑いのは苦手かい?」
揶揄するように見遣れば、犬神は心底嫌そうに頷く。
「夏は嫌いだよ」
吐き捨てるように零れた言葉に、声を立てて笑う。
「まぁ暑いのは誰だって嫌だろうさ」
視線の先、雨足は先程よりも更に、弱まったようで。
もう、降っているのか、止んでいるのかさえ、良く分からない。
こんな天気には、重くうっとうしい己の髪を纏めようと、白沢がその銀糸の髪を束ねた時、不意に、こんな天気の中、何処から飛んできたのか、一羽の揚羽蝶が、くるりふわりと、目の前を舞った。
「おや…」
犬神が、簀子から身を乗り出して翳した指先。
ゆるりと、その揚羽蝶が、その羽を留めた。
「会いに…来てくれたのですか…?」
降り注ぐ雨に濡れぬようにと、そっと己の方へ引き寄せながら、問いかける横顔は、ひどく穏やかで。
「何だい。お前は蝶に知り合いでもいるのかい?」
また、揶揄するように問いかければ、犬神は視線は指先の揚羽蝶のまま、小さく苦笑を漏らした。
「違うよ。…蝶は死者の化身と言うだろう?」
その横顔は、ひどく穏やかなまま。
微かに嬉しそうな微笑さえ湛えて。
「―――っ」
その横顔に、湛えられた微笑に、白沢の背に、恐怖にも似た悪寒が走る。
全身を総毛立たせたそれに、思わず、風を呼ぶ。
「あ…っ」
唐突に吹き荒れた突風に巻き上げられ、指先の揚羽蝶は、呆気無く飛ばされ、二人の視界から、消えた。
風に煽られ、頬を濡らした雫に、まだ、雨が降っていることを知る。
「白沢…っ」
「お前は…っ」
詰る犬神の言葉を遮り、その手首を掴む。
確かな温もりが流れるそれに、力を込めると、犬神が驚いたように目を見開き、見返してくる。
「お前は生きてるんだから…」
耳に響く声は、どこか悲痛さを帯びていて。
このまま雨が止むことなく土砂降りになり、もう二度と、蝶など飛んでこなければいいと、思う。
「白沢…?」
怪訝そうに小首を傾げて覗き込んでくる犬神の双眸を、強く見返す。
「生きてるんだから、生きてる者と関わらなきゃならないんだよ…っ」
ひどく穏やかな横顔は、嬉しそうな微笑さえ湛えた横顔は、まるで、死に魅入られている様に、白沢には見えた。
指先の者の誘いに、乗ってしまうかと思うような。
犬神は一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、不意に、微笑を浮かべた。
「馬鹿だね。それぐらい分かってるよ。あれはただの蝶。化身でもなんでもないさ」
「お前さんだって分かってるだろう?」と続く言葉に、一瞬、安堵の息を吐く。
けれど犬神の唇は、微笑を刷いたまま、更に言葉を続けた。
「…ただ…忘れる必要も無いだろう…?」
その言葉に、寸の間、息が詰まる。
向けられた、ひどく穏やかで、ひどく優しい、透き通るような微笑に、犬神の中の、癒えることの無い傷の深さを、思い知る。
今だその身を捕らえ続ける、失った人々を。
ぎりと、無意識の内に、簀子の節目、爪を立てた。
詰めた息をゆっくりと吐き出し、その漆黒の瞳を、強く見据える。
いつの間にか乾いた唇を、舌でなぞり、湿らせると、白沢は口を開いた。
「確かにね。無理に忘れることは無い。…だけど、引きずり続ける必要も無いんだよ」
最後の言葉には、強い意思を込めて。
つっと、簀子に立てた爪を、今度は己の指先、その腹に這わせる。
途端、表れる赤い線は、すぐにぱっくりと開き、赤い雫を落とす。
「白沢…っ?」
驚く犬神の唇を、己のそれで塞ぎ、継いで放たれるであろう、非難の言葉を奪う。
身じろぐその身体を、強く抱きすくめれば、一瞬、逡巡する気配の後、それでも諦めたか、大人しくなった。
「白沢…?」
そっと身を離し、怪訝そうに己を見つめるその唇に、自身の血で濡れた指を、這わせる。
形の良い唇は、血塗られ、妙に艶めいて。
もう一度、唇をなぞる様に口付ければ、鼻腔を突く錆びた鉄の匂いに思わず、眉を顰めた。
自分の血はやはり不味いとぼんやりと思う。
「あたしは生きてるよ…」
これは、その証だと、今だその唇に残る己の血を指の腹で拭ってやりながら、呆然と己を見つめる犬神に、口角を吊り上げ、笑いかける。
犬神に向けられるそれは、艶然とした、笑み。
その耳元、囁くように、言葉を落とす。
「だから、あたしをちゃんと見ておくれな…」
ふるり、犬神の身が、僅かに震えたのは、寒さの所為か。
首筋に顔を埋めるようにして抱き込んでやれば、おずおずと、背に回る腕。
白沢の肩口で小さく、犬神が息を吐いた。
「全く…お前さんは何をするかわからないね…」
困ったように呟かれた言葉に、喉の奥底、殺したのは忍び笑い。
肌寒い冷気の中、互いの体温が、ひどく心地良い。
「犬神…」
名を呼べば、その漆黒の瞳に映る、自分自身。
そう、それでいいと、白沢は思う。
死者など、映す必要は無い。
それは幻影にしか過ぎぬのだから。
「お前さんの眼に映るためなら何だってするさ」
口角を吊り上げて笑えば、驚いたように見開かれた犬神の目元、さっと朱が走る。
「全く…」
続く言葉は、けれど、声にはならなかったようで。
ことりと、頭を肩に預けてくる犬神に、腕の中のその体温に、白沢はひどく満足そうな笑みを、その形の良い唇に刷いた―。
いつの間にか雨の上がった庭。
純白の紫陽花が、雲の狭間、微かに差し込む光に、その白を、煌かせていた―。