昼の名残のある生温い風が、頬を撫でる。
 夏の夜特有の、風。
 近くで夜店でも出ているのか、ソースやら何やらの調味料の混ざった匂いが、鼻腔を突く。
 ふと、傍らの電柱に目を遣ると、剥れ掛けた張り紙に、縁日を知らせる文字が躍っていた。
 日付を見れば、書いてあるのは今日のもの。
 そう言えば、先程何人か、浴衣姿の人を見たなと、思い出す。
 足元のゴミも、普段より圧倒的に多いのにも、合点がいく。
 そんなことをつらつらと考えていると、隣を歩いていた瑞垣が、不意に口を開いた。

「なぁ姫さん…アレやらん?」
 
 節くれ立った長い指が指し示す先にあるのは、神社の参道に軒を連ねた夜店の一つ、金魚掬いの屋台だった。

「別に…良いけど?」

 予想外の言葉に、戸惑いはあったが、特に反対する理由もないので、大人しくその後について行く。
 二人分の料金を払う瑞垣の背中から、底の浅い水槽へと視線を移すと、残り数える程になった赤やら黒やらの金魚たちが、ゆらゆらと泳いでいた。
 周りを見渡せば、ほとんどの店が店仕舞いを始め、人通りもまばらだ。
 賛同に散らばった、発泡スチロールのトレーやら、割り箸やら残飯やらが、人々に踏まれ、無残な姿を晒している。
 そんな、祭りの後の光景。
 そう言えば、久しぶりかもしれない。こんな光景を見るのは。

「姫さん」
「ん?」
 
 名を呼ばれ、顔を上げると、数匹づつ、赤やら黒やらの金魚が入ったビニール袋を3,4袋持った瑞垣がいた。

「…は…?」

 驚いて水槽のほうを見れば、金魚の影はなく、覗き込む自分の影と、白熱灯に群がる虫の影だけが、ただ揺らめいているだけだった。

「もしかして…あんた…」
「全部捕ったった」

 さらりと言ってのけられ、巧の切れ長の目が、驚きに見開かれる。

「まぁ…少なかったしな」
「……」
「行こ」

 巧以上に固まっている的屋の兄ちゃんに軽く礼を言って、歩き出す。
 先を歩く背中と、その手に持たれた丸い袋の中で瑞垣の歩きにあわせて揺れる金魚を見比べていた巧は、はたと、浮かんだ疑問を口にした。

「けどあんた、そんなにとってどうするんだよ」

 記憶の中の瑞垣の部屋には、水槽などなかったはずだ。
 巧の家にはあるにはあるが、先住は肉食のブルーギル。
 金魚など一瞬で餌になってしまう。 

「ん〜…まぁ一戸当てがあるから…」

 そう言って、家とは反対方向の角を曲がる瑞垣。
 なんだか良く分からないが、とりあえず、付いて行くしかない様だった。
 夏の夜の路地を、並んで歩く。
 どこかで花火でも上げているのか、はしゃぐ子供の声と、火薬の爆音が、遠くに聞こえる。
 貧相な光を投げかける街頭が作る、アスファルトに広がる染みの様に、黒く伸びる、二人の影。
 大通りを走り抜ける、改造車の爆音が耳を掠めたとき、瑞垣が足を止めた。

「ここ?」
「ここ」

 目の前に広がるのは、小学校の校庭に張り巡らされた、人の背丈ほどのフェンス。
 暗くてよく見えないが、奥の方の中庭に池があるらしく、水の音と、循環のためのモーター音が、低く響いていた。

「俺らが通っとった小学校」
「ふぅん…」

 言いながら、フェンスに足を掛ける瑞垣に、一瞬、『不法侵入』と言う言葉が頭を掠めたが、今更後に引けるわけもなく、巧も後に続いた。

「なぁ姫さん知っとった?こいつら売れ残りはみんな生ゴミになるんじゃて」
「ふぅん…」

 明日の天気でも話すように告げた瑞垣に、先程と同じ調子で、先程と同じ言葉を返す。
 闇夜に白っぽく浮かんだ砂利の上、所狭しと並べられた児童達の、朝顔か何かの鉢植えを蹴飛ばさないよう、身長に歩く。
 セメントで作られた池を一見する限りでは、離した途端食われてしまいました。と言うような、大型魚はいないようだ。
 もっとも、暗くて魚影も何も、分かったもんじゃないのだが…。

「姫さんちょぉこれ持って」
「ん」

 巧に残りの袋を持たせ、一つづ、袋を垂直にして金魚を池に放す。

「金魚すくい…」

 ようやく全ての袋を空にし終えたところで、瑞垣がぽつりと呟いた。

「金魚掬い?」
「あぁ…すくいはこっちの救いな」

 そう言って瑞垣は、濡れた指先で、セメントの淵に『救』の文字を書く。
 それは直ぐに乾いて消えてしまったが、読み取ることは出来た。

「あぁ…救急車の救」
「そ。救急車の救」

 湿り気を帯びた風に巻き上げられた、泥と水の混じった匂いが、鼻腔を掠める。
 視界の端で揺れる、昏い水底の、紅い尾ひれ。

「エゴやなぁ…」
「エゴだな」
 
 また、明日の天気でも話すような口調で言う瑞垣に、同じ調子で、言葉を返す。
 目の前で咲き乱れる、夜目にも鮮やかな花々。
 また、視界の端で、紅い尾ひれが揺れた。

「でもまぁ…良いんじゃねぇの?」

 そう言ってゆるく微笑みかけると、瑞垣は一瞬、驚いたように目を見開いたが、直ぐに、同じように微笑を浮かべた。

「うん。そう…やな…」

 頬を撫でるのは、穏やかな夏の夜風。
 足元の昏い水底で揺れるのは紅い尾ひれ。
 目の前で咲き乱れるのは、夜目にも鮮やかな花々。
 そんな情景が、いつまでも脳裏に残る、ある夏の夜の記憶―。