「痛っ!」
唐突に、響いた声と同時。
ばさり、帳面が落ちる、乾いた音。
店裏にいた何人かが、振り返れば、痛みに顔を顰める、松之助が、いた。
「大丈夫ですか?」
「…っは、い…」
落とした帳面を拾い上げてやりながら、苦笑交じりに問いかければ、殆ど涙目になりながら、見上げてきた顔が、照れたように笑う。
何処をぶつけたのかと聞けば、足の小指。
そこは痛いと、周りにいた何人かが、同情の笑みを投げかけた。
「あぁ、爪が割れてしまってますよ」
思わず、眉根を寄せれば、周りからも気遣う声が、掛かる。
僅かに割れた桜色の爪に、滲む赤が痛々しい。
「大丈夫ですよ。すぐ治ります」
皆の視線を集めるのが気恥ずかしいのか、慌て、隠すように足を引く松之助を、遮るように、その前に、屈みこむ。
袂から取り出すのは、仁吉から持たされた塗り薬。
「立ち仕事が足を大事にしないでどうするんです。仁吉から貰った薬がありますから」
言いながら、その足を捕らえ、また何か言う前に手早く薬を塗りこめる。
不意に片足を取られた所為で、体勢を崩した松之助が、咄嗟に掴んだ佐助の肩を持つ手に、ぎゅっと、力が篭る。
小さく息を詰めるその気配に、そう言えばこの薬は良く聞くけれど、物凄く沁みるものだったのを、思い出す。
手を離せば、そろそろと足を引く様が、なんとも痛そうだった。
「…あ、りがとうございます…」
ぶつけた、その時よりも赤い目をして言う声が、心なしか震えていて、思わず、笑ってしまう。
「仁吉の薬は、沁みるけど、良く効くんですよ」
「…若だんなが言ってました」
まだ涙目のまま、頷く松之助の肩を、励ますように叩く。
「佐助さんは仁吉さんと仲が良いんだねぇ」
どこか、感心したような声に、振り返れば、馴染みの人足たちと、目が合った。
「えぇ。まぁ」
頷けば、興味深げな視線を投げられ、思わず半歩、後ずさる。
「仁吉さんって、どんな人なんだい?」
「どんなって…」
「あの色男だろ?時々薬種の荷を確認するときに顔を見るよ」
答えるより先に、別の人足から、声が上がる。
その声の主が、ぐっと、眉間に皺を寄せた。
「なんだか愛想があるんだか無いんだか…。あの手の顔は性根が悪そうで俺は好かんね」
その言葉に、今度は佐助が、眉根を寄せる。
傍らで松之助が何か言おうとしたのを制して、その人足に、向き直る。
「仁吉は良い奴ですよ。…良く知りもしない人間をどうこう言う奴の性根はどうなんだい」
向ける、視線がきつい。
珍しく、低められた声音に、その場にいた者の顔が、引き攣る。
何も言わず、慌てたように視線を逸らす横顔を、尚も睨みつけた時、一番初めに声を掛けてきた人足が、取り成すように、笑みを浮かべた。
「確かに、佐助さんの言うとおりさね。…お前が悪い」
「…悪かったよ…」
ぼそり、呟かれた謝罪の言葉と、見上げてくる不安げな視線に、それ以上何か言うことはなかったけれど。
その日、傾いた機嫌が、直ることはなかった。
「松之助さんに聞いたよ」
「何を」
夜、並べて布団を敷きながら、不意に仁吉が、揶揄する様な笑みを、投げかけてきた。
敷き布の端を丁寧に整えながら訊ねれば、不意に顔を覗きこまれ、面食らう。
「お前、今日お店で声を荒げたらしいね」
その言葉に、思い出すのは昼間の出来事。
思わず、鼻に皺を寄せれば、仁吉が声を立てて、笑った。
「言いたい奴には言わせときゃあ良いのに」
言いながら、頬を撫でてくる手は、ひどく優しいのに。
思い出す言葉に、知らず、口調が、不機嫌そうな色を、帯びる。
「そうはいくか。…腹が立つだろう。…何も知らないくせに、好き勝手ばかり言いやがるんだ」
荒い言葉に、仁吉はただ、苦笑する。
宥めるようにそっと、背中から抱すくめてくる腕が、温かい。
「別にあたしは構わないさ」
「あたしが構う」
間髪いれずに返した答えに、一瞬、驚いた様に目を見開いた後、仁吉は何故か、ひどく嬉しそうに、笑った。
「何」
「いや?…随分腹を立ててくれるんだなと思ってね」
くつくつと、喉の奥で漏らされる忍び笑いに、佐助は怪訝そうに、眉根を寄せる。
「だって、あたしみたいにお前の良いとこも悪いとこも、全部知ってて言うんなら兎も角…何だいさっきから気味悪い」
一層深くなる忍び笑いに、佐助は訳が分からないと、背中の仁吉を、振り仰ぐ。
けれど返って来るのは、上機嫌の笑い顔だけ。
答える気は無いその様に、佐助は諦めたように溜息を一つ吐いて、仁吉の腕を、振り解く。
「寝る」
布団に潜り込めば、一瞬、離れた体温は、すぐに追いかけてきて。
身に馴染んだ体温が、心地良い。
知らず、口の端に浮かぶのは笑み。
無意識の内に、指先は絡む腕を、掴んでいた。
「おやすみ」
「…おやすみ」
暫くして、寝息を立て始めた佐助は、気付いていないけれど。
「全部知ってる」なんて、簡単に言える言葉ではないのに。
佐助は当たり前のように、それを口にしていた。
それはそれだけ、仁吉を深く、理解しているということで。
それはそれだけ、仁吉を深く、想っているということで。
その、垣間見えた想いの深さに、仁吉の口の端、浮かぶのは、ひどく嬉しそうな、微笑。
「あたしのことを全部知ってるのは、お前だけで十分なんだよ」
囁けば、返って来るのは穏やかな寝息。
それはひどく、愛おしくて。
起こさぬ程度にそっと、その首筋に口付けを落とすと、仁吉は己も、瞼を閉じた。