「見捨てないで見捨てないで見捨てないで見捨てないで」
繰り返し繰り返し零される言葉は、強張って、震えていた。
あたしは黙って、抱きしめる腕に力を込めるので精一杯で。
何か言おうかと、思ったけれど。
今口を開けば、悲鳴しか出そうに無くて、やめた。
「―――っ」
ついさっき、切られた胸に爪を立てられて、一瞬、目の前が白くなる。
ぬるついた感触で、彼の指があたしの皮膚の上を滑るのがわかる。
みしりと、歯が軋む音がする。
力を込めすぎた顎は、きっと、次に口を開くときに苦労するだろうなと、ぼんやりと思った。
激しすぎる律動は、苦しくて、痛い。
血の匂いに、頭がぼんやりとしてきた。
「ごめんね…ごめんねごめんねごめんね」
繰り返される言葉に、行為が終わったのを知る。
まだ、あたしの中に入ったまま、きつく抱きしめられて、潰れたどこかの傷口が痛んだ。
セックスでも暴力でもないこれは、強いて言うなら彼の自傷行為。
傷は、彼の手首からあたしの体に移行しただけの話。
あたしは、それを全部受け止める。
それしか、方法が無い。
けど、そこに救いは無い。
そんなことは、お互いよく分かっていた。
「大丈夫だよ。…大丈夫…大丈夫」
ゆっくりと、繰り返す。
声は掠れて、舌はうまく動かせない。
案の定、顎が軋んだ。
「愛してるから…あたしは伊織を愛してるから…」
何度も何度も、繰り返す。
けれど、何度繰り返したところで、こんな言葉は、彼の裡を満たしはしない。
彼はあたしに、貰えなかった「母親からの愛情と庇護」を求めてる。
けれど、代理は所詮代理でしかない。
彼は他人から見捨てられることに極度に怯えるけれど。
どんなに「見捨てない」と、固い約束を与えたところで、彼自身が、自分で自分を見捨てちゃってるから。
それは、信じてはもらえない。
どんなに言葉を紡いだって、どんなに愛情を注いだって。
彼には、届かない。
「シャワー…行こうか…」
呟けば、彼は動けないあたしを抱きかかえて風呂場まで運んでくれる。
とても大事そうに。
それでも、立ち上がれば、全身が痛い。
けど、それを覚らせてはいけない。
知ったら、彼はきっと、ひどく傷ついてしまうから。
また、泣いてしまうから。
必要以上の痛みは、ただの苦痛でしかないことぐらい、あたしは知ってる。
痛みは、自分で選択することに、意味があるんだ。
「流すよ」
十分に温められたお湯が、ゆっくりと、掛けられる。
空の浴槽に蹲ったまま、それを受け入れれば、湯気の向こうで、彼が微笑う気配がした。
ほんの少し、沸いてくる安堵感。
そこら中にこびり付いて、乾いた血も、諸々の体液も、全部洗い流される。
彼の手によって。
その動きは、とても優しくて。
さっきとはまるで別人。
あたしは黙って、されるがまま。
いつだって、そう。
あたしには、選ぶほどの権利は、無い。いらない。
そんな資格は、あたしには無い。
薄紅のお湯が、透明なお湯になた頃、シャワーは止まる。
柔らかいタオルでそっと、とても優しく、体が拭かれる。
それでも、傷口の上を通られれば、やっぱり痛い。
痣を抑えられれば、一瞬、体が跳ねる。
その度、彼は悲しそうに眉根を寄せて、「ごめんね」を繰り返した。
「大丈夫…大丈夫だから…」
その度、あたしは繰り返して。
体を拭ってくれる彼の手を遮って、抱き締める。
それが、彼の望むことだろうから。
傷つけ、許しを請う。
そうやって、彼はあたしの愛情を、計ってる。
「僕のことを愛してるなら、許してくれるよね?」
無言の、声にならない声が、そう言ってるのが、あたしには聞こえたから。
彼はそれを、「母親が注ぐ無償の愛」と、思い込みたいんだろう。
だけど、彼もあたしも気付いてる。
本当の母親は、傷つけられもしないし、セックスもしない。
それでも、彼はあたしが居ないと生きられないと思い込みたいし、あたしも、彼の為に存在していると、思い込みたいから。
「大丈夫。何があっても、あたしはあなたを愛してる」
この呪文で、彼を縛りつける。
言外に、
「あたし以外は、あなたを愛せない」
なんて、残酷な響きを込めて。
抜け出せない、共依存の関係。
「おやすみ」
二人、血まみれのベッドに抱き合って、眠る。
左肩の下に出来た、生乾きの小さな血溜まりが、ごわついて、冷たかった。
未だ血が滲み出る胸に、彼は顔を埋めるから、あたしの血が、彼の髪に、頬に、絡まる。
そういえば、剃刀はどこにやったんだっけ。
もしかしたらまだ、このベッドの上にあるかもしれない。
寝てる間に怪我をするのは、嫌だなぁとか、ぼんやりと思ったとき、急に呼吸が遮られた。
「……っは…っ」
喉から漏れる、変な音が、可笑しかった。
見上げれば、泣きそうな顔で、彼があたしの首を締め上げてる真っ最中。
その手に、そっと、自分の痺れる手を、重ねる。
彼の、あたしの血が混じった涙が、頬に落ちた。
「殺して…良い?」
震える問いかけ。
あたしは、一生懸命口角を吊り上げて、微笑う努力をする。
ひゅうひゅう言う呼吸のしたから、声を絞り出す。
「良い…よ…」
途端、彼の指が、あたしの首から離れた。
突然肺に流れ込んできた酸素に、噎せ返る。
激しく咳き込めば、肺が、軋む様に痛い。
彼の手が、あたしの背を、擦る。
「ごめんね…ごめんね…」
「大丈夫だよ」って。言わなくちゃ。
彼はそれを望んでるのに。
それでも、咳は止まってくれないし、苦しくて声も出せなかった。
しばらくして、ようやっと、落ち着いたけど。
呼吸する度、肺が鈍く痛んだ。
「ごめんね…」
「大丈夫だよ…」
いつもの会話。
いつもの触れ合い。
それは、彼が望むこと。
でも、あたしは、彼が本当に望んでる言葉は、吐き出してない。
彼は、あたしを自分の手首の代わりにしているけれど。
あたしは、彼を剃刀の代わりにしているんだ。
あたしたちは、どんなに二人でいても、いつも独り。
其処には救いなんて無い。
それはお互い、よく分かってる。
「あたしはあなたと生きていたい」
この言葉を、彼は望んでる。
自分が与える死を受け入れて、自分を独りにする人よりも。
共に生きてくれる人を。
ああだけど、ごめんね。
あたしには「生き続ける」ことなんて考えられないの。
結局あたしたちはお互いを首吊りのロープとしか見れていないのだ。