「明日からはもう…兄さんは長崎屋にはいないんだね」

 呟いた言葉は、そうならないよう精一杯努力したのに、どこか寂しげで。
 兄さんが、困ったように笑う。

「近くですから…遊びに来てください」
「うん」

 笑う顔は、引き攣ってはいないだろうか。
 巧く、笑えているだろうか。
 兄の門出を祝う、弟の顔が、できているだろうか。

「お咲きさん、綺麗な人だね」

 言えば、兄さんが照れたように笑う。
 その笑顔に、自分が言った言葉に、ずくり、胸が痛む。
 それでも、止める事はできなくて。

「やや子ができたら…遊びに来てね」

 微笑う私を、心の奥、哂う。
 それでも、幸せそうに微笑する兄さんを見れば、そうすること以外、できなくて。

「兄さん」

 行灯の陰が、揺らぐ。
 私の顔を半分、隠してくれる。
 
「幸せ?」

 頷いた松之助の笑顔は、ひどく、綺麗で。
 その笑顔に、この人の居場所は此処じゃないと、確信する。
 私の傍ではなく、もっと、もっと遠くへ。

「これ…」

 そう言って、差し出したのは、青のビードロ。
 兄さんと私を、引き合わせてくれた、ビードロ。
 それは、いつもと変わらず、青く澄んでいて。
 私の掌から、兄さんの手へ。
 青い煌きが、移る。

「お祝い」

 微笑えば、兄さんは驚いたように目を見開いた後、本当に、本当に嬉しそうに、笑ってくれた。

「持っていてね」
「はい…っ」

 頷いてくれる笑顔に、また、胸が痛む。
 ずくり、ずくり。
 持っていてね。
 離れても、少しでも、兄さんの心の中、私が残れるように。
 他は全部、諦めるから。
 どうか、それぐらいは、許してほしい。

「そろそろ遅いですから…」

 「休んでください」と、立ち上がりかける兄さんの裾を、掴む。
 あと少し、もう少しだけと、縋るような思いを込めて。

「今日が最後だから…一緒に寝よう?」

 作るのは、兄を慕う弟の顔。
 兄さんは、兄の顔で、頷いてくれた―。

 



「……」

 有明行灯がともる、薄闇の中、じっと目を凝らす。
 見つめるのは、穏やかな寝息を立てる、横顔。
 そっと、手指を絡ませれば、温かくて。
 ずくり、胸痛む。
 この想いを、告げることができたなら。
 兄さんは、どんな顔をするだろう。
 驚いて、困って…その後は…?

「……」

 音も無く、唇から零れるのは自嘲の笑み。
 できもしないことを、してはならいことを、考えてみたところで仕方ない。
 
「ねぇ兄さん…」

 返事の無い呼びかけ。
 そっと、身を起こす。

―好きだよ―

 これからも、ずっと。
 重ねたのは、唇。
 触れるだけのそれは、ただ、胸の痛みを呼んだだけ。
 それで、良かった。
 これは、私だけが知っていればいい感情だもの。
 兄さんは、知らなくていい。
 それで、兄さんが幸せになるのなら。
 私はそれで良い。




「ねぇ若だんな」

 朝早く、部屋を出る兄さんが、振り返る。
 まだ夜も開け切らぬ、薄暗い澄んだ空気の中、見上げたその顔に浮かんだのは、ひどく幸福そうな、照れ笑い。
 私が初めて見る様な、笑顔。

「あたしは若だんなと出会えたことが、一番の幸福ですよ」

 ああ、そんなこと…言わないでよ。
 そんな顔で、言わないでよ。 

「ありがとう」

 ほら、応える声が、震えたじゃないか。
 せっかく、今まで堪えてきたのに。
 喉の奥が、痛い。
 目が、熱い。
 俯いた途端、ぱたり、畳を濡らす。

「若だんな…?」

 心配そうな兄さんの声に、顔を上げて、笑う。
 涙を潰して、笑う。

「大好きだよ兄さん」

 それは、嘘偽り無い言葉。
 それは、嘘偽り無い笑顔。
 兄さんに送る、最初で、最後の心―。


 
 その日、向けられた笑顔は、いつまでも私の心に残って、消えてはくれなかった―。