「………?」

 はらり、目の前に舞い降りた薄紅に、一体何処からと、顔を上げる。
 よく辺りを見れば、桜の陰は無いのに、点々と、薄紅が地面に散っている。
 うららかな日差しが、背に温かいこの時期、別段、珍しいわけではないけれど。
 視線をさ迷わせれば、少し離れた寺の塀の向こうに、僅かに、薄紅の枝が覗いていた。

「あそこか…」

 呟く、その目の前をまた、薄紅が舞う。
 ひらり、風に乗るそれを、何気なく掌に捕らえ込みながら。
 思うのは、今年も、桜が見れないと、床に臥せったまま嘆いていた義弟。
 幾日も続いた熱が、ようやっと昨日下がったばかり。
 当然、出歩くなんてことが許されるわけも無い。
 
「………」

 見つめるのは、掌の薄紅。
 思い出すのは、昨日、見舞った時の、白すぎる横顔。
 きゅっと、手の中に薄紅を閉じ込める。
 荷運びが思ったよりも早く終わったから。
 少しなら、時間もある。
 ほんの少しだけ、寄り道をするくらいなら、たぶん、大丈夫。
 心の裡で、そう呟いて。
 松之助は何度か逡巡したのち、その足先を、まだ名前も知らぬ、その寺へと向けた。





「若だんな、お加減は如何です?」

 そうっと、控えめに呼びかけてくる声に、一太郎が弾かれたように顔を上げる。
 薄く開けた障子の向こうは、まだ日も高い。
 こんな時間に、松之助が訊ねてきてくれるなんて珍しい。
 つい、いつぞやの出来事を思い出しながら。
 真逆二度も同じことは無いだろうと、苦笑しながら、入るよう、促す。

「どうしたの?兄さん」

 乾いた唇に、嬉しげな笑みを浮かべながら。
 躊躇いがちに障子を開ける松之助の手を引いて、ふかりとした自分の布団の上に、座らせる。

「あの、…これを…」

 言いながら、差し出されたのは、柔く包んだ懐紙。
 そっと、受け取って。

「開けていいの?」

 問いかければ、頷くから。
 そっと、紙を開けば、途端に、はらはらと零れ落ちる薄紅。

「わあ…!これ、桜?」

 軽い吐息でさえ、ふうわり、転がり飛ぶ薄紅に、知らず、笑みが零れる。

「帰りに、見つけたものだから。…ごめんよ、花びらだけで」

 近づいた桜は、それは見事で。
 本当は枝一振りぐらい、欲しかったのだけれど。
 流石にそれは躊躇われたので。
 舞い落ちる花びらだけを丁寧に掬って。
 懐紙に包んで、持ち帰ったのだ。

「ううん!嬉しいよ。すごく」

 言いながら、そっと、松之助の手指に、己のそれを絡ませる。
 
「ありがとう」
 
 笑みを向ければ、気恥ずかしそうに俯いてしまうから。
 その頬に、そっと、唇を寄掛けた時。

「あ、…も、もうお店に戻らなきゃ…」

 そう、不意に立ち上がって。
 慌てたように、障子に手を掛けるのに、つい、残念そうな色がありありと滲んだ溜息を付いてしまう。

「ねえ兄さん」
「うん?」

 振り返った目元は、まだ赤い。
 それだけで、嬉しい心地になりながら。
 身を起こした布団の上、笑い顔で、問いかける。

「何より大事なお店の仕事を抜けてまで、桜を届けにきてくれたの?」

 寄り道をして、桜を拾って。
 更に自分のところにまで来てくれるなんて。
 真面目な松之助のことだから。
 きっと、散々悩んだに違いない。
 その全てが、自分のためだと思うと、自然、口元が緩むのをとめられない。

「一太郎を、…喜ばせたかったから」

 そう言って、はにかむように、笑う顔に、一瞬、息を呑む。
 知らず、頬が熱い。
 何か言おうと、唇を震わせる間に、松之助は足早に行ってしまった。

「………」

 後に残されたのは、布団の上に零れた薄紅と、赤い顔の一太郎。
 几帳面な松之助らしく、障子はぴったりと閉じあわされてしまったから。
 もう、風が吹き込むことも無い。
 格子柄に切り取られた陽だまりの中。
 そっと、指先で薄紅を掬う。
 さらり、掌を滑るそれに、知らず、浮かべるのは笑み。

「いっそ枝ごと持ってくりゃあ良いのに」

 はらはらと、畳の上にまで滑った薄紅を摘みながら、屏風のぞきが呆れた様に言う。
 手の中の薄紅を、そっと、懐紙に包みながら。
 
「そこが、兄さんらしくて良いんじゃない」
 
 口元に笑みを含んだまま言えば、背中で、あきれたような溜息が吐かれた。

 大切に大切に。
 一枚残らず、薄紅を拾い上げて。
 届けられた春の想いは、ひどく温かかった。