甲高い声を、聞いたような気がした。
  ざあざあと屋根を、通りを打つ雨音に、それは一瞬でかき消されたけれど。
  誰もが足早に行き過ぎる中、確かにその声を聞いた気がして、立ち止まる。
  横殴りの、強すぎる風に傘を傾けながら、辺りを見回す。
  家々の狭間の細小路。
  軒下から滝のように降り注ぐ水たまりの泥の中、それを見つけた。

「―――っ」

  数歩、足を前に踏み出しかけて、その場に立ち尽くす。
  迷惑そうな視線を投げかけて、人々の流れが、松之助を避ける。
 近寄らなくても、それは分かった。
 不自然に折れ曲がった、まだ小さな羽はぴくりとも動かず。
 小さな眼窪は、もう何も映してはいない。
 小さな小さな嘴から零れる、細く赤い糸を、ざあざあと、容赦なく降り注ぐ雨が洗っていた。
 軒下から降り注ぐ雫が、その小さな腹に、泥を浴びせかける。
  強風に煽られ、固い瓦にでもぶつかってしまったのか、名も知らぬ小鳥は、ただ静かに、その骸を雨の中に投げ出していた。
  誰かの肩が、松之助にぶつかる。
  よろめいた拍子に、泥が、爪先を汚す。
  そのまま、視線を戻すことなく、人の流れに沿って、歩き出す。
  背後に横たわる、死の気配を振り切るように、足早に。
  五月の雨は、ひどく冷たい。
  横殴りの風が、傘の意味を奪う。
  濡れ汚れ、足元に纏わりつく着物が不快だなと、無理矢理、そんなことを考えてみたり、する。
  五月の雨は、ひどく冷たい。
 横殴りの風が、吹き荒ぶ。
  まるで何もかも、奪うように。
  押し流してしまうように。
 耳の奥底、蘇るのは、聞いてしまった甲高い声。
 恐らくは小鳥の最期の、悲鳴。
  脳裏をよぎるのは、虚ろな眼。
  遠退いた背中にあるのは、つい先程まで、確かにそこにあった命が、奪われた、事実。

「―――っ」

 ざわり。背中を撫でたのは理由のない悪寒。
  いつの間にか、松之助は駆けだしていた。




  ざあざあざあざあ。
  地を、屋根を打つ雨音は、一向弱まる気配がない。
  風が強いからと、閉め切った障子が、がたがたと音を立てる。
  離れに押し込められた一太郎にとって、外出もままならない現状は、退屈極まりない。

「屏風のぞき、一局どうだい?」

  声を、掛けてみるけれど。
  怠そうに屏風の中で横になったまま、無言で首を横に振られてしまう。
  抜け出して向かい合って、碁石を持つと言うことすら辛いのだろう。
  この天気だもの仕方ないかと、溜息混じりに視線を落とした時。
  不意に、絵の中の屏風のぞきが、居住まいを正す。

「………?」

  それを疑問に思う間もなく、唐突に障子が開いた。
 流れ込む、冷えた空気に、一層、雨音が大きくなる。
 
「兄さん………?」

  余程慌てて、走ってきたのか、半分以上、その身を雨に濡らした松之助が、肩で息をしながら立っていた。

「どうし……」

  言葉が、宙に浮く。
 頬に落ちる冷たい雫に、随分近くから降ってくる、震えた吐息に、己が抱きすくめられたことを知る。
 
「……兄さん…?」

  珍しい、と言うより、初めての唐突過ぎる松之助の行動に、そっと、伺うように問いかけてみるけれど、返事はなくて。
  きつくきつく、まるで縋りつく様に抱きすくめてくる腕の冷たさに、一太郎は微かに、眉根を寄せる。
  
「……どうしたの…?」

  顔を、見上げようとしたけれど。
  きつく抱きすくめられていたから、叶わなかった。
  代わりにそっと、己の腕を、伸ばす。
  柔く、宥めるように。
  嘗て、悪夢に怯えた時、仁吉や佐助が、そうしてくれたように。
  松之助の背を、撫でてみる。
  濡れた着物は、いつもより強く、松之助の体温を、一太郎に伝えた。

「どこにも……」

 不意に、降ってきた声に、一太郎は微かに、小首を傾げる。
  無言で促せば、震える声が、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぐ。

「どこにも…行かないでおくれ…」

  それはまるで、縋るような色を帯びて、一太郎の耳に、響く。

「…あたしを…独りにしないでおくれ」
―あぁ……―

  なにがあったか何て、分からないけれど。
  松之助を震わせる、恐怖にも似た感情を、一太郎は知っているような気がした。

―置き去りにするのか、されるのか…―

  それはどちらも、ひどく苦しい。

「うん。…大丈夫だよ…私はずぅっとずぅっと、此処にいるよ…」

  そんな事を、ついこの間まで熱を出して寝込んでいた己が言うなんて、随分可笑しなことだけれど。

「ずぅっとずぅっと、傍にいたいよ…」

  それは何より強く、想う願いだから。  きつくきつく、まるで縋りつく様に。
 一太郎は松之助の背に回す腕に、力を込めた――。

 ざあざあざあざあ。
 雨音はまだ、止むことはない―。