「それだけは…っなあ、待ってくれ…頼むから」

 嗚呼、こいつのこんな弱々しい声を聞くのは、初めてなんじゃあ、無いだろうか。
 どこか、ぼんやりと思いながら。
 困ったように笑って、さらりとした漆黒の髪を、撫でる。
 
「歳、俺ぁもう良いんだよ」

 安心させるように、笑いかければ、目の前の整った顔が、泣き出しそうなほど、歪む。
 きつくきつく、着物を掴んだ、細く白い指が、はっきりと、震えていた。

「かっちゃん……!」

 だれより親しい、その呼び名に。
 嗚呼懐かしいと、思わず、目を細めた。
 京に上ってから、今日まで。
 構わないというのに。
 他の隊士に示しが付かないと、ずっと、土方自ら、禁じていた、その呼び名。

「待ってくれよ…頼む、から…」

 哀願じみた声音が、胸に痛い。
 宥めるように擦る肩さえ、震えていた。
 その肩に、自分が背負わせたものは、どれ程の重さだっただろう。
 
「俺ぁ、お前に立派な武士にしてもらったんだ。武士のまま、死なせてくれや。な?」

 土方が、その全てを賭して。
 自分に与えてくれた物を、最期まで全うしたい。
 共に憧れ、目指し、手に入れたものを、守りたい。
 そう、思うけれど。
 顔を上げた頬は、濡れていて。
 つい、漏らすのは、苦い、苦い、笑み。
 いつだって、傲然と顔を上げて。
 前だけを、睨み据えていた、その強い眼を。
 真逆自分が、涙に濡らすことになるとは、思ってもみなかった。

「あんただけだ…俺は、あんただけに……っ」

 苦しげに吐き出される言葉に、ずくり、胸が痛む。
 近藤のため、ただそれだけに。
 実の弟よりも大切な親友は、様々なものを、背負ってきた。
 ただ、近藤の為だけに。

「死ぬな……っ」

 そして今、その涙さえ、近藤の為だけに、流してくれている。
 
「泣いてくれるな…なぁ歳、泣いてくれるな。…歳…」

 無き縋る背を、擦りながら。
 繰り返す声は、ひどく、優しかった。 









 まるで子供にするみたいに。
 頭を撫でてくる手は、無骨で、大きくて。 
 酷く優しく、温かい。
 昔と何一つ変わらぬその手に。
 ぎりと、音がするほど、歯を食い縛る。

「かっちゃん……!」

 思わず、呼んでいたのは、懐かしい呼び名。
 縋るように、着物を握った手指が、情けないほど、震えている。
 死なせたくない。
 どうにかなる。
 まだ、どうにかなる。
 どうにかして、みせるから。

「待ってくれよ…頼む、から…」

 哀願する声が、震える、上擦る。
 此れほどまでに、切に願ったとなど、あっただろうか。

「俺ぁ、お前に立派な武士にしてもらったんだ。武士のまま、死なせてくれや。な?」

 武士になる。
 唯それだけに憧れ、目指し、手に入れるために、走り続けてきた。
 どこかで、いつか、こんな時が来ることが、分かっていたのかもしれない。
 けれどそれは、決して受け入れていることではなくて。
 眼の奥が、熱い。
 視界が、滲む。
 息が、苦しい。
 
「あんただけだ…俺は、あんただけに……っ」

 無茶ばかりする自分を、いつも笑って、受け入れてくれて。
 誰より懐が大きい、この人を。
 誰より慕い、誰より大切に思っていたから。
 夢を、叶えたい。
 そう思って、ただ、走り続けてきたのに。
 払ってきた犠牲は、余りに大きい。
 ぽたり、ぽたり、畳に幾粒も、散る雫。
 初めて、涙を流して、縋りつく。
 誰が死んだ時も、泣いたりなんてしなかった。
 自分が泣いたら、それで終わりだと思っていた。 
 死を悼む資格すら、自分には無いから。
 その自分が、今度は生きてくれと、泣き縋っている。
 滑稽だと、思う。
 身勝手だと、分かっている。
 けれど。
 誰に何と、言われようとも。

「死ぬな……っ」

 近藤だけは、死なせたくない。

「泣いてくれるな…なぁ歳、泣いてくれるな。…歳…」

 繰り返される、酷く穏やかだけれど、少し困ったような声音。
 いつまでも背を撫でてくれる手は、無骨で大きくて。
 酷く優しく、温かい。
 昔と何一つ変わらなかった。