休み時間には生徒であふれ、騒がしい廊下も、授業時間中の今は、静まり返っていて。
 普段使われることの無い、特別教室ばかりが並ぶこの棟には、教師の声すら、響かない。
 冷たい石造りの手すりに手を滑らせながら、のろのろと上るのは、屋上へと続く階段。
 カンカンと、金属の滑り止めが、一段上るたびに、音を立てる。
 ひんやりとした空気は、どこか埃臭い。
 それは、この先の人気の無さを、表していて。
 
「………」

 予想通り、屋上へと続く踊り場には誰も居なかった。
 物置と化しているそこは、立ち入り禁止区域。
 当然、掃除の手など入ることの無く、積もりに積もった埃が、白っぽく層を成していた。
 その白い床の上に、足跡を付けながら、手をかけるのは幾重も鎖の巻かれたドアノブ。
 重い南京錠は、先に壊したから、簡単に開いて。
 鍵の掛かっているはずのドアノブは、あっけなく回った。
 ぎっと、錆びた音を立てて、押し開いた途端、吹き込んでくる風に、床の埃が舞い上がる。
 咳き込む前に、屋上に飛び出し、ドアを閉めた。
 コンクリートの壁に、凭れながら、ずるずると座り込む。
 人気の無い此処は、ひどく心を落ち着かせてくれる。
 陽だまりに吹く風が、心地良かった。
 転校生の自分に向けられる好奇の視線も、東の、どこか冷たく感じる言葉にも、馴染めなくて。
 いつの間にか、張り詰めていた心が、緩むのが分かる。
 遠くで響く、体育教師の号令。
 ゆっくりと目を閉じながら、眠りの波を、待つ。
 ふと、瞼の裏、思い浮かぶのは、最近やたらと、自分のことを気にかけてくるれる上級生の整った顔。
 初めて見たとき、随分綺麗な人だなと、そう、思った。
 切れ長の目は、鋭い光を宿していて。
 いいなと、ぼんやりと、見つめていた。
 どうやら向こうは、自分のことを睨み付けていたらしいけれど。
 それには気付かず、見つめ続けていたら、声を掛けられた。
 怒っている風だったけれど。
 よく通る、艶のある声だった。
 
「綺麗な声ですね」

 思ったままを口にすれば、一瞬、呆けた様な顔をされた挙句、思い切り笑われた。
 笑った顔も、綺麗だと、思った。

「見ない顔だな。誰?」
「1年の山崎です。こないだ転校してきました」

 応える声が、何故だか、少し掠れた。
 目の前の綺麗な顔が、一瞬、思案するように俯く。
 扇状の睫が、白い肌に、小さく影を落とした。

「1年…。斉藤と同じか。…斉藤一」

 言われた名は、知らなかったけれど、後でクラスメイトだと、気付いた。
 それからだった。
 見かける度、声を掛けてくれるようになったのは。
 
「あ?山崎?」

 そう。こんな風に。

「……?ぅわっ」

 目を開ければ、随分と近い距離から、覗き込んでいる顔があって。
 ついさっきまで、考えていたその人の顔がそこにあって、思わず、息を呑む。

「な…土方さんっ?」
「あぁ悪いな。起こしちまって」

 言いながら、向けられる苦笑に、慌てて首を振る。

「サボりですか?」
「お前と同じな」

 向けられるのは、少し人の悪い、笑み。
 形のいい唇に乗せられたそれは、ひどく、土方に似合って。
 見ほれている自分に気付き、思わず、苦笑が漏れる。
 と、不意に、胡坐を組んだ足の上、重みと、温もりを感じて。
 驚いて視線を落とせば、己の膝に、頭を預ける土方が、いた。

「土方さんっ?」
「コンクリートに頭置くと痛ぇだろ?膝貸せ」

 思わず出ていた大声が煩かったのか、微かに眉を顰めながら言うその目は、もう閉じられていて。
 女の膝とは違い、決して寝心地がいいものでもあるまいしと、思うけれど。
 コンクリートの非情な硬さよりは、ましらしい。
 山崎の動揺など気にも留めずに、程なくして、零れ始めたのは、規則正しい寝息。
 己の目の前にある、ひどく無防備なそれに、ざわりと、胸がざわつくのを感じ、慌てて、視線を逸らす。
 それでも、いつの間にか、視線は土方の寝顔に注がれていて。
 
―バイト先の女を孕ませたとか、店長殴ってクビになったとか、他校の生徒をフルボッコにしたとか―
 
 怖いような噂は、絶えないけれど。
 同時に、女生徒からの人気も、絶えなくて。 
 
―ホンマに綺麗な人やもんなぁ…―

 その理由も、分かる気がした。
 そっと、少し伸び気味の前髪を、指先で払ってやる。
 艶やかに細い黒髪は、さらりと、山崎の指を流れて。
 くすぐったかったのか、土方が僅かに、身じろいだ。
 また、胸がざわつく。
 ずっと、こうしていたいと、不意に思った。
 もっと、触れてみたいと。

「………」

 そっと、伸ばす指先が、微かに震えた。
 少し乾燥した、薄く開いた唇から漏れる吐息が、掛かるほどに、触れそうなほどに、山崎の指が、伸ばされた時。

「あー!!やっぱり此処だっ」

 不意に響いた、第三者の声に、びくりと、身を竦ませる。
 慌てて指を握りこみながら、振り返れば、いつも土方の傍にいる2人が、ドアから顔を覗かせていて。
 
「すまんなぁ山崎」
「どいて下さい山崎」

 同時に掛けられた声に、どう答え様かと、戸惑う。
 苦笑する近藤の隣で、ひどく剣呑な光を宿した目で、沖田が睨み付けてくる。
 知らず、背中に冷たい汗が、流れた。

「ほらトシ。山崎が重いだろう」

 言いながら、近藤の手が、軽く、土方の頬を叩く。
 
「ん…かっちゃん…?」

 小さく呻きながら、ぼんやりと、焦点の定まらぬ瞳で、近藤を見上げる土方の声は、掠れていて。
 ひどく危ういそれに、また、胸がざわつくのを感じた。
 その土方の腕が、近藤に伸ばされる。

「ダルい…」
「仕方ねぇなぁ…」

 苦笑交じりに呟き、人よりも広い、学ラン黒いの背を向ける近藤に、のそのそと起き上がった土方が、どさりと、その身を預けた。
 決して軽くは無いだろうそれを、近藤はひょいと、背負い。
 驚く山崎に、「悪かったな」と、唇の動きだけで告げた。
 その背ではもう、土方が再び寝息を立てていて。
 
「アレさせて貰えるの、近藤さんだけなんだよなぁ…」

 二人を見送る沖田の、不服そうな呟きに顔を上げれば、ひどく冷たい視線で、見下ろされた。
 ぞくりと、また、冷たい汗が、背筋を伝う。

「今度勝手に触ったら…許しませんよ」

 にこりと、向けられるのは、屈託の無い笑顔。
 ただ、声音はひどく冷たく、目も、笑ってはいなかった。
 一瞬、気圧される。

「…分かりません」

 それでも、山崎にも、意地がある。
 挑むように、見上げれば、沖田は一瞬、意外そうに片眉を引き上げて。
 不意に、その口の端に、笑みを乗せた。

「意外に言いますね」
「はぁ…」
 
 気の抜けた返事を返せば、沖田は小さく笑みを零して。
 何か言われるのかと、身構えたけれど、その気配は無く。
 そのまま、二人の後を追うように、屋上を後にしてしまった。

「つまり…敵は手強いってことか…」
 
 一人、残された屋上で、ぽつり、呟く。
 舎外用スピーカーから響く、やたら大きなチャイムが、その呟きすら、掻き消していた―。