傘を打つ雨音が、耳に煩い。
 行き交う人は皆忙しそうで。
 俯いて誰とも視線を交わさぬまま、皆が通り過ぎる。
 泥が裾に跳ねるのを気にしながら。
 皆、気にするのは己のみ。
 そんな人々が行きかう四辻のちょうど真ん中。
 それはただ静かに横たわっていた。
 ぼろぼろに乱れた濡れた羽には艶は無く。
 不自然に折れ曲がった首は動くことは無く。
 乾いた眼窩はただ静かに、冷たい雫を湛えていた。
 皆がそれを、跨いで歩いた。
 避けて、歩いた。
 そしてまた、人の列に戻る。
 誰かの泥が跳ね、死んだ鳥の腹を汚す。
 自分も、避けて歩いた。
 そしてまた、人の列に戻った。



「雨、止みませんねぇ」

 傍らでぽつりと呟く沖田の声に、返すのは生返事。
 昼間の鳥が、ちらと、頭を掠めた。
 乾いた眼窩に溜まった、冷たい雫。
 濡れた、ぼろぼろの羽。
 泥に汚れた、小さな腹。
 それを避けた、己の泥に汚れた草履。
 昔の自分なら…。

「何かあったんですか?」

 不意の問いかけに、意識を戻すと、柔和な笑みを載せた沖田の顔がそこにあった。
 
「何も…今日は特に何もなかったよ」

 何を今更と、浮かんだ己の考えを打ち消す。
 今更、己がそんなことを考えたのが可笑しかった。 
 昔の自分なら、どうしたというのだ。

「嘘でしょ」
 
 やんわりとした声で、否定され、一瞬、身を強張らせる。
 ああこいつはいつもそうだと、ぼんやりと思う。 
 いつだって、自分の、ほんの些細な変化でさえ、見逃してはくれない。
 柔く、温かい視線が、背中に当たる。 
 
「鳥が、死んでいた」

 それに促され、唇は言葉を零す。
 障子を開けることで器用に視線を逸らしながら。
 雨音がいっそう、大きくなった。
 冷たい冷気が、肌を掠める。

「皆が、避けて歩いていた」

 どんよりと、暗い空。
 微かに吹いた風に、吹き込んでくる雫は、冷たい。

「俺も、避けて歩いた」

 あの鳥の上に降った雨は、もっと冷たかったのだろうか。

「土方さんは優しいですね」

 不意に、体を包んだ温もり。
 鼻腔を掠める沖田の匂い。
 
「何処が…。今日までに何人斬ったと思ってんだ」

 それでも、後から抱きすくめるように、絡む腕を掴む指を解く気にはなれなくて。
 
「優しいですよ。昔から」

 嘘だ。
 と思う。
 昔の自分は、もう居ない。

「変わらないですよ。昔から」

 沖田の声は、酷く優しい。
 それは、昔から変わらなくて。
 昔から変わらず、己の傍にあって。 
 その声に、温もりに、思わず、掴む指に、力が籠る。

「優しいですよ。こうやってその鳥の為に泣けるくらい」
「泣いてねぇよ」

 反射的に振り返ろうとして、けれど、抱きすくめてくる腕が思いのほか強くて、叶わなかった。
 吹き込む雨が、沖田の袂を、点々と、濡らす。
 庭の木々を揺らす音が、一瞬、雨音を掻き消した。

「涙を流すことだけが、泣くことじゃないでしょう…?」
「…何だそれ」

 背中で、柔らかな微笑を零す気配が、分かる。
 自分は、ここへ来るまで、何人斬った。
 ここへ来るまで、どれほど変わった。
 そんなことなど、もう分からない程。
 昔の自分ならきっと、あの小さな亡骸を拾い上げていただろう。
 そしてきっと、どこかに葬った。
 雨に濡れることの無いところへ。
 泥を掛けられることの無いところへ。
 そして、泣いただろう。
 ただ純粋に、その小さな死に、泣けただろう。
 きゅっと、己を包む温もりを、確かめるように、また、力を込める。
 この声は、温もりは、それでも、いつも己の傍にあって。
 それはいつも、変わらなくて。
 その声が、言う。  

「土方さんは変わらないですよ」

 この言葉を、信じても、いいのだろうか。
 まだ、許されるのだろうか。
 変わってしまった己は。
 まだ、この声に、温もりに、縋っていても、良いのだろうか。
 許されるなら。
 あと少し。
 もう少しだけ。

「雨、止むといいですね…」
 
 どんよりと暗い空を見上げ、呟く。
 この優しい声に、この温もりに、縋っていたい。

「そう…だな…」

 応える口の端、微かな笑みが、浮かぶ。
 許されるなら。
 あと少し、
 もう少しだけ。
 この優しい声の傍で、この温もりの中で、微笑っていよう―。