点々と薄紅が散る、コンクリートの階段を、上る。
校舎の裏、少し高台になっているそこには、講堂らしき建物があるが、予想している人集りは無くて。
少し、困った様に、眉根を寄せた。
「体育館って…何処だ…?」
小さく呟いた声は、己でも分かるほどに困惑が滲んでいて。
「入学式のご案内」と書かれた冊子を、睨みつける。
入試の時は、案内されるまま試験会場である教室に通されたから、余り感じなかったけれど。
どうやら、本日無事入学することのできたこの学園は、相当、複雑な造りをしているらしかった。
「………」
入学式に遅刻してきてしまった自分も、悪かったが。
この不親切な案内図も悪いと、また、手の中の冊子を睨みつける。
その時。
鼻腔をふうわり、紫煙が掠めた。
―煙草…?―
思えば此処は人気の無い校舎裏。
絶好のポイントだと、思い至る。
―入学式にヤンキーかよ…―
下手に、揉めたくは無い。
早々に立ち去ろうと、踵を返す。
ふうわり。
風に乗って、また、紫煙が香る。
桜の花びらが、頬を撫でた。
「あ…」
階段を降りようと、踏み出した時。
丁度、校舎の影から出てきた人影と、ばちり、視線が合う。
その口元には、火の付いた煙草が、咥えられていて。
お互い、一瞬、驚いた様に、目を見開いてしまう。
「何?」
先に、我に帰ったのは、上級生らしい、その生徒の方で。
気怠げに、少し眺めの前髪を掻き揚げながら。
階段下から、睨みあげられ、何故か、胸が騒ぐ。
強い、眼だった。
今までに見たこと事が無いほどに。
「あ、いや…入学式、迷ってしまって」
言って、自分で訳が分からないことを、口走っていると思う。
踏み潰した上履きのまま、無言で、上級生は階段を上ってくるものだから。
自然、縮まる距離に、思わず、後退さる。
「名前」
「へ?」
「名前。…新入生だろ」
自分のすぐ、一段下まで、やって来たその人は、ふっと、紫煙を吐き出した。
形のいい唇から、揺らぐ煙に、一瞬、目を奪われる。
知らず、頬が熱い。
「さ、斉藤です。斉藤一」
相手は校舎内で堂々と煙草を吹かすような不良なのに。
一体何を正直に名乗っているんだと、思うけれど。
同時に、自分を知っておいて欲しいとも、強く思った。
「斉藤」
ふっと、紫煙を吐きかける唇が、不意に、笑みを刻む。
少し掠れた、低い、良く通る声に名前を呼ばれて、胸がざわつく。
ぴんと、細く白い指先が、短くなった煙草を、遠くへ弾いて。
胸ポケットから新しい一本を取り出すと、ゆっくりと、まるで見せ付けるように、火をつける。
伏せた睫毛が、白い肌に影を落として。
どくり、また、胸が鳴った。
じっと、先端が焦げて、先端に赤い火を灯す。
白い手指で、煙草を挟んで、紫煙を吐いたかと思ったら。
唐突に、摘んだフィルターを、唇に押し当てられた。
鼻先に強く香る、煙草の匂いは、その白い指に染み付いているものだろう。
「やるよ」
にやりと、人の悪い笑みを、形のいい唇が、刻む。
それは、上級生の整った顔に、余りにも似合いすぎていて。
思わず、息を呑んだ途端、紫煙を吸い込んでしまって。
慣れぬそれに、激しく、咽る。
「これでお前も共犯だ」
言いながら、蹲る斉藤の脇を、上級生の潰れた上履きが、行き過ぎる。
涙が滲む目で、それでも、振り返って見上げれば、丁度、上級生も、此方を振り返ったところだった。
「斉藤」
さあっと、一陣の風が吹く。
階段を上りきったところ。
講堂前に咲く桜が、花を散らす。
「三年の土方…だ」
桜を背負った上級生が、口角を吊り上げ、笑う。
艶やかな黒髪が、桜に乱れて。
ひどく、似合うなと、ぼんやりと思った。
「土方さん…」
呟くように、名前をなぞる。
土方はすっと、校舎の向こうを、指差した。
「体育館は校舎突っ切って、第一グラウンドの東門から、公道渡って、第二グラウンドの方だ」
どうやらこの無駄に広い学園は、校庭が公道を挟んで、二分しているらしい。
そう言えば、部活動専用のグラウンドが何面かあると、聞いたような気がする。
「あ、すみません。…ありがとうございます」
礼は、言ったものの。
何故か、この場を離れがたくて。
逡巡する間に、土方はくるり、踵を返してしまう。
その、向けられた黒い学ランの背中に、何故だか、落胆してしまう。
当たり前だと、溜息を一つ吐いて。
いい加減、体育館に向かおうと、踵を返しかけたとき。
「斉藤」
再び、呼び止められ、思わず、勢い良く、振り返ってしまう。
「体育館は向こうだが…桜が一等綺麗なのは、この講堂の裏だぜ」
にやりと、口角を吊り上げて。
向けられたのは、人の悪い笑み。
どくり、胸が騒ぐ。
その間にもう、土方は階段を上り終え、講堂の裏へと、向かっていて。
「土方さん!」
今度は斉藤が、呼び止める。
立ち止まる背に、叫んでいた。
「お、俺も一緒して良いですか」
振り返った顔が、笑みを浮かべる。
胸ポケットから出してきたのは、煙草ケース。
不意に、放り投げられたそれは、綺麗な弧を描いて、斉藤の胸に届く。
「煙草、買ってきてくれたらな」
「お前にやったのが最後だった」と、揶揄するように、笑うその顔は、どこか悪戯を仕掛けた、少年のようで。
どくり、胸が鳴る。
「はい!」
返事を返す頃には、もう、階段を駆け下りていた。
背中で、土方が声を立てて笑う。
不良だし、なんだか怖そうな人だけれど。
煙草なんて、制服のままで、買っているところを誰かに見られたら、大変なのだけれど。
それでも、それでも。
あの人の傍にいたい。
何故だかそう、強く思う。
―土方さん、か…―
走る、斉藤の口元には、楽しげな笑みが、いつの間にか浮かんでいた。