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ぎゃあぎゃあと、かしましい悲鳴が、静かな離れに、響く。
仁吉の足払いが、呆れるぐらい綺麗に、屏風のぞきに、決まる。
「ぎゃ…っ」
大きな音を立てて倒れこんだその襟首を引っ掴んで、部屋から引きずり出してしまう。
助けを求める視線を投げかけられて、腰を浮かしかければ、佐助の腕に阻まれた。
「佐助っ!お前この薄情者っ!」
詰る、屏風のぞきの声は、言う間にも、遠ざかる。
すぐに、その姿すら、廊下の角、奥の手代部屋へと、引きずり込まれて消えてしまった。
「だ、大丈夫かしら…」
思い出すのは、仁吉が屏風のぞきに向けた、酷薄そうな笑み。
いつもの事とは言え、不安が過ぎる。
「大丈夫ですよ。…じゃれあってるだけですから」
事も無げに言われ、思わず、目を見開く。
差し出される湯飲みを受け取りながら、そう言えば、仁吉の目は楽しそうな色を浮かべていたのを、思い出す。
「屏風のぞきも大変だねぇ…」
苦笑すれば、佐助からも僅かに、苦笑が零れた。
「それが分かっていて好き合っているんですから、呆れたものです」
ずっと、一口、茶を啜って。
二人、交わすのは苦笑い。
一太郎には、良く分からないけれど。
二人があれで良いのなら、良いのかも知れない。
「情というのは色々な形があるもんだねぇ…」
もう一口、茶を口に含みながら、ぽつり、零せば、佐助が小さく、笑みを零す。
色恋の何かも、良く分からぬ己が言ったのが、可笑しかったのだろうか。
ほんの少し、気恥ずかしくなって。
慌てて、視線を手の中の湯飲みに、移す。
ふんわりと、湯気が上がるそれは、とても、温かい。
「佐助は、誰かそういう人は、いないのかい?」
なんとなく、湧いた疑問をそのまま口にして、そう言えばこの兄やは、とんとそういう話を聞かないと、思い出す。
言って、己で興味を掻き立てられて。
ちらり、伺うように視線を投げれば、ふわり、笑みを向けられる。
「あたしは若だんなのお傍でお世話をさせていただくことが、一番の幸せですから」
なんとなく、予想通りの答えに、一太郎は小さく、肩を落とす。
多分、仁吉ですら、同じ答えを返してくるだろう。
この二人にとって、どれほど自分が特別かなんてことは、一太郎自身が一番、良く知っていた。
「そうじゃなくてさ…。恋仲じゃなくても良いんだよ。一番の友達とか、大切に想う人だとか…」
誰より自分を大事に想ってくれる両親も、互いの伴侶を、一太郎とは別の意味で、愛しいと思っている。
仁吉や屏風のぞきだって、きっとそうなのだろう。
一太郎自身は、まだ、分からないけれど。
それでも、己の心の裡を全て打ち明けれらる、栄吉と言う大事な大事な、友がいる。
佐助には、いないのだろうか。
誰か、そう、心の拠り所のような人は、いないのだろうか。
「そういう人は、いないの…?」
ぎゅっと、知らぬ間に、湯飲みを持つ手に、力が篭る。
それは、少し寂しいことでは、ないのだろうか。
不安な時、哀しい時、苦しい時辛い時、誰かに縋りたいと、思わないのだろうか。
ふうわり、立ち上る湯気の向こう、じっと、佐助を見つめれば、存外、強い視線を投げていたのか、佐助が驚いた様に、僅か、目を見開いた。
けれどそれはすぐに、いつもの、ひどく優しい笑みへと、変わる。
くしゃり、大きな手が、幼子にするそれとお同じように、一太郎の頭を、撫でた。
「大丈夫ですよ。…あたしは本当に、若だんなのお傍にいられるだけで、十分すぎるぐらいに、幸せなんです」
安心させるように、撫でてくる大きな手は、いつだって、ひどく心地良い。
つい、目を細めそうになって、一太郎は慌てて、身を引いた。
もう、幼子ではないのだ。
「もう、またそうやって、子供扱いしてはぐらかす」
幼子の様に、されるがまま、心地良く感じてしまった自分が気恥ずかしくて。
誤魔化すように早口に言えば、佐助は僅かに、目を見開いたあと、ほんの少し、寂しげな笑みを浮かべて、手を引いた。
―あ…―
何故だか、分からないけれど。
ほんの少し、心に湧いた罪悪感。
なんとなく、気まずくて。
また、湯飲みに視線を落とすことで、目をそらす。
まだ、手の中のそれは、温かい。
「若だんな?」
怪訝そうな声が、上がる。
それには、応えずに。
唐突に、膝立ちになった一太郎は、その細い腕を、佐助に伸ばす。
佐助は、座ったままだったから。
きゅうと、抱き込むように、その背中に、腕を回す。
「どうしたんですか?気分が悪いんですか?」
心配げに、背を擦る手に、ふるり、首をふる。
「ごめん…」
小さく、呟けば。
それだけで全てを察したのか、佐助から微かに、苦笑が漏れた。
ぽんぽんと、宥めるように背を叩いてくれる手は、やはり、ひどく優しい。
「大丈夫ですよ。気にしてません」
その顔は、やはり、優しい笑みを、浮かべているのが、見なくても分かる。
佐助も仁吉も、いつだって自分に優しい。
誰より何より、思ってくれる。
それを、少しでも返したいと思うのに。
ぎゅっと、佐助の肩に顎を乗せたまま、見下ろすのは佐助の背中で組んだ、己の手。
白く細いそれは、いつ見ても、随分と頼りない。
それでも。
「ねぇ佐助」
「はい?」
顔を上げた佐助の髪が、頬を擽る。
「こうやってると、あったかい心地に、ならないかい?」
勝手に外出をして。
気分が悪くなって、心細い思いをしても。
きっと、二人の兄やは見つけ出してくれるから。
その帰り道は、たくさんの小言を貰うけれど、温かい背に負われ、いつだって安心することが出来るのだ。
寂しい時、哀しい時、苦しい時、不安な時、辛い時。
手を握られ、頭を撫でてもらえば、いつだって、安心して眠ることが出来る。
その、あったかい心地なら、ほんの少しでも、返せるような気がして。
背に回した腕に、きゅっと、力を込める。
「もし、もしね、佐助の心に、何か辛いことがあったら…私はいつだって、こうしてたいと、思うよ」
言いながら、見下ろす己の手は、やっぱり頼りないけれど。
今だって、佐助を抱き込んでいるのか、佐助に抱きついているのか、傍から見れば、後者に見えるのだろうけれど。
それでも、あったかい心地は、与えることが出来るはずだと、一太郎は思いたかった。
「佐助…?」
返って来ない返事に、怪訝に覗き込めば、はっとしたように、我に返った佐助と、目が合った。
その目が、ひどく優しく、けれど、何処か嬉しそうに、笑う。
「そうですねぇ…」
「わ…っ」
言いながら、腕を両の脇の下に差し込まれ、ふわり、身体が浮く。
あっという間に、くるりと身体を反転させられ、座した佐助の膝の上、抱え上げられてしまう。
「あたしは、此方の方がいいです」
「佐助っ?私が言いたいのは…」
これでは、幼子の時と同じじゃあないか。
これでは、返すことができないじゃあないかと、言い募ろうとしたけれど。
不意に、口を開いた佐助の言葉に、阻まれる。
「あたしはねぇ若だんな。こうやって、ずうっとずうっと、若だんなのお傍にいられるだけで、どんなことでも、幸せに変わってしまうんですよ」
優しい手が、一太郎の頭を、撫でる。
それはひどく、温かくて、心地良い。
「だから、ね…若だんな」
呼ばれ、顔を上げれば、困った様に笑う、佐助と、ぶつかる視線。
「あんまり早く、大人にならないで下さいな」
「………」
それだけで、全部が分かってしまう。
本当に本当に、佐助は、こうしてるだけで、幸せなのだろう。
一太郎がいるだけで、幸せなのだろう。
くたり、肩から力が、抜ける。
背中に、全部の体重を預けながら、心地良い手に、目を閉じる。
「じゃあ、そうする」
「はい」
嬉しそうに頷く佐助に、内心、吐くのは溜息。
早く大人になりたいと、思うのに。
こうやって、幼子の様に扱われるのを、心地良いと思う自分がいるのが、少し悔しい。
それでも、きっと、こうしていることが、佐助にとっては、何より心地良く、幸せなことなのだから。
―だったら、もうちょっとの間だけ、こうしてても、良いよね…?―
どこかで、言い訳じみていると思いながら。
一太郎はそっと、背中の温もりに、身を委ねる。
「あと、寝込まず、丈夫でいてください」
「…がんばるよ」
「それから、薬もきちんと飲んでくれないと困ります」
「…うん」
「ご飯もたくさん食べてください」
「……がんばってるじゃないか」
目を開け、詰るように見上げれば、くすくすと、楽しげに笑みを零す顔が、そこにあって。
少し悔しい心地がして、ふいと、視線をそらす。
「…ね、佐助」
「はい?」
本当はこの一言が、ずっと言いたかったのかもしれない。
いつも感じていたことだから。
いつも、気恥ずかしくて、中々言い出せなかったけれど。
今なら、言える気がしたから。
「いつもありがとう、ね」
ぽつり、零れるように、呟く。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
返って来た、予想外の言葉に、顔を上げれば、目が合った途端、向けられる笑い顔に、つられ、零すのは照れ笑い。
初秋の、穏やかな秋の午後が作る陽だまりの中。
二つの笑い顔は、幸福の色を、映し出していた―。