聞き慣れぬ音を聞いた。
 ひどく優しく、たおやかな旋律。
 低く高く、微かな声で、紡がれる。
 自分の意識を呼び起こしたそれに、傍らの白沢を振り返ると、ぴたりとその音はやんだ。
「今の…歌か?」
 聞いたことのない音だった。
 異国のもののような。
 でもどこか、懐かしいような…。
「あぁ。あたしが生まれた所の歌さね」
 起こしたかい?と、眉尻を下げる白沢に、ゆるく首を振る犬神。
 凭れていた背中から身を離すと、一つ、伸びをする。
 小さな音を立てる、凝り固まった関節。
「生まれたところって・・・?」 
 少し乱れた後ろ髪を梳いてくる手に知らず、目を細めた。
 柔らかい早春の風が、二人の頬を撫でる。
 花の香が、鼻腔を擽る。
「大陸」
 告げられた言葉に、どこか懐かしいと感じた答えを見つけた。
 そう、遙か昔、大師も時折似たような言葉の歌を口ずさんでいたのを思い出したのだ。
 それを告げると、白沢は一瞬驚いたように目を見開き、それからほんの少し、哀しげな色をその瞳に滲ませた。
「そうかい…それじゃあ大師もあの船旅を味わったかもしれないんだねぇ…」
「…辛いものだったのか…?」
 大師からは、大陸でのことは余り聞いていない。
 苦笑しながら頷く白沢の、その瞳に滲む悲しみの色が濃くなったことに、犬神は己の問いかけを後悔した。
 かりっと、無意識の内に簀子の節目に爪を立てる。
「ごめんよ…嫌な事を聞いたね…」
 呟き、俯くと、白沢の手がくしゃりと優しく頭をかき乱す。
 顔を上げろと、暗に示され、ゆるゆると顔を上げると、優しげに笑う目と、視線がぶつかる。
 心に湧くのは、ほんの少しの安堵。
「嫌な事ばかりじゃなかったさ。お前さんが気にすることじゃあない」
 言いながら、白沢はゆっくりと、己の過去を語り始めた。
 犬神はただ静かに、それに耳を傾ける。


「こっちに渡ってきたのはほんのガキの頃さ。まだ小妖だったあたしには、色々と面倒を見てくれる奴がいてね…」
 そいつは気の良い小妖だった。
 人間達の話の間で交わされる、海の向こうにある、島国に夢を見るような。
 ある日、そいつは憧れの島国へ行く船へ、潜り込むことに成功した。
 当然、まだ幼かった白沢も、同行する。
「好奇心さ」
「白沢もそんなもので行動するんだねぇ…」
 意外そうな犬神の言葉に、白沢は笑って、話を続ける。
「けど、それは決して楽しい船旅じゃあなかった」
 船は、何度も嵐にあった。
 かつて幾足りもの僧が、御使いが、商人が遭ったそれと同じように。
 何人もの人が、海原に投げ出され、帰らぬ人となった。
 人々の間に、不安な空気が流れ始める。
「悪かったのはそれに妖封じとか言う気に食わない技を生業にする御坊が乗り合わせてたことさね」
 苦々しげに呟く白沢に、犬神はただ黙って、続く言葉を待つ。
 真っ直ぐに前を見つめる白沢の視線の先で、真昼の陽光が、乾いた庭土を、白っぽく浮き上がらせていた。
 まだうすら寂しい木々の間を揺らす風の音だけが、辺りに響く。
 白沢は再び、ゆっくりと口を開いた。
「そいつはこの船がこんなにも嵐に遭うのは妖が取憑いているからだと言いやがった」
 当然、船の者の間に、動揺が走る。
 しかし真実は、白沢たち妖が、一番良く知っていた。
「そんなものは憑いちゃいなかったのに」
 けれど、その御坊の言葉を、人々は信じた。
 そして、起こった悲劇。
 強い雨風に船が揺れる、そんな絵に描いたような嵐の夜だった。
 連れの小妖が、御坊に捕らえられたのは。
「馬鹿な奴だよ。逃げろと言ったのに…」
 呟き、切れ長の目を眇める白沢の瞳に映るのは、目の前の庭ではない。
 遠い日の情景。
「それで…そいつは…」
 喉に引っかかった様な、掠れた声で訪ねる犬神に、白沢は短く告げる。
「死了。…死んだよ」
 聞き慣れない大陸の言葉。
 その後に続く言葉にも、何の感情も篭っていない。
 それが更に、事の悲哀を、如実に犬神の心へ伝えた。
 白沢の目の前で、御坊に殺された小妖。
 自分にもその手は伸びてきたが、しかし、白沢が明確に記憶しているのはそこまでだった。
 気がつけば、嵐は止んでいて、気がつけば、周りのものは皆死に絶えていて、
 気がつけば…己の全身は赤黒く染まっていた。
「そして船は、この国に着いた。陸は目の前だったのさ」
 嘲る様な笑みが、白沢の唇に浮かぶ。
 記憶の底にあるのは、憎憎しいまでに晴れ渡った青空と、色を混ぜあう何事も無かったかの様に凪いだ海原。
 白っぽく浮き上がった甲板と、それを染め上げるどす黒い赤。
「そこから先は、お前も知っている通りだよ。京へ出たあたしは、皮衣様に…」
 視線を犬神に戻した白沢の言葉が、宙に浮く。
 哀しみに濡れた瞳が、真っ直ぐに自分を見ていたから。
 同情でも憐憫でも偽善でもなく、ただ哀しみだけを映した目が、そこにあったから。
 不意に握られた手に込められた、痛いほどの力。
 けれどそれを振り払うことを、白沢はしなかった。
 その手を握り返し、抱き寄せる。
「白沢…あたしはあんたを置いて行ったりしない。あたしは死なない」
 肩口で、震える声で、けれどはっきりと、犬神は言う。
 思い出す。
 この男は誰よりも『失う痛み』を知っていることを。
「?是我的…心肝肉儿…あたしもお前より先には死ねないねぇ…」
 呟いたその言葉に、無言で、背に回された腕に力が込められる。
 微かに震えるその背を抱きながら、白沢はゆっくりと目を閉じ、先程己が呟いた言葉をもう一度呟いた。
「心肝肉儿…」
 そんな相手を、一人残せる訳がない。
  
 この契りだけは、何があっても違えはしないと、白沢は己の心に刻み付けた―。